はじめに
前回、わたしたちは「仏教」という言葉そのものが、それを取り囲む暮らしのかたちの変化とともに性格を変えてきたことを、ヴィトゲンシュタイン後期の「生活形式」という考え方を手がかりに見てきました。

言葉は辞書の中に意味を蓄えているのではなく、それが使われる暮らしのかたち——人々が何をし、何を当てにし、何に感情を揺さぶられるのか——実際使われている中で意味を得る。だとすれば、暮らしのかたちが変われば、同じ言葉でも、その意味あいは時代を背景にして入れ替わっていく。これが前回たどり着いた地点でした。
ここから一歩を進めてみたいと思います。同じことは、何も寺の中だけで起きているのではありません。
わたしたちが毎日なにげなく口にしている言葉の足もとでも、同じ地殻変動が進んでいます。前回の記事の中でふれた「家族」という一語を取り上げるだけで、それはもう十分に明らかなのです。
剥がれ落ちていく言葉たち
改めて、「家族」という言葉から、その地殻変動を見てみましょう。かつてわたしは、家族の在り方が変わっていくことを、比較的わかりやすい言葉で片づけていました。
「個の時代だから」
「価値観が多様化したから」
「西洋から流れ込んだ個人主義が、日本の家族観にも及んできたから」
わたしばかりでなく、他の社会問題の情報サイトでも似たような論調を見かけることがあります。
親と子が同じ家に住み続けることが当たり前ではなくなり、結婚の形も、働き方も、介護の担い手も、以前とは大きく変わりました。かつて「家族」と呼ばれていたものの輪郭は、たしかに曖昧になっています。
けれども、最近の記事において、ヴィトゲンシュタインの思想を見返しているうちに、わたしは少し違うことを考えるようになりました。
もしかすると、変わったのは家族そのものではなく、わたしたちが「家族」という言葉に抱いていた自明性(はじめからはっきりしていること)の方だったのではないか。
つまり、「家族」というものに、初めからひとつの本質があったわけではない。ただ、社会の仕組みや生活の形式が比較的安定していたために、あたかもそこに変わらない本質があるように見えていただけではないか。
この線上で考えていくと、この問題は「家族」に限られた話ではなくなります。現代において揺らいでいるのは、家族だけではありません。
- 幸福とは何か
- 自分らしさとは何か
- 宗教とは何か
- 会社とは何か
- 地域とは何か
- 人生とは何か
わたしたちは、かつて自明だと思っていた多くの言葉の前で、立ち止まるようになっています。そして、その立ち止まりって行く中で、多くの人が不安を覚えています。
けれども、本当に失われたのは、それらの言葉の「本質」なのでしょうか。あるいは、失われたのは、本質があると信じていられた時代の安心感だったのでしょうか。
今回は、本質を探そうと足掻く人々をよそに、言葉の持つ自明性が剥がれ落ちていく様子をまとめてみました。
「家族らしさ」はどこにあるのか
まず、「家族」という言葉から考えてみます。
わたしたちは、何気なく「家族」と言います。しかし、家族とは何かと問われると、その定義は意外なほど難しくなります。血のつながりがあることが家族なのでしょうか。しかし、養子縁組だって家族です。
同じ家に住んでいることが家族なのでしょうか。しかし、離れて暮らす親子もいます。
結婚によって結ばれていることが家族なのでしょうか。しかし、事実婚や単身世帯、再婚家庭、親族ではない人同士の生活共同体もあります。子どもがいることが家族なのでしょうか。しかし、子どものいない夫婦も家族と呼ばれます。
このように見ていくと、すべての家族に共通する一つの本質を取り出すことは、思いのほか難しいのです。しかも、この家族と呼ばれていた形態は、現代に限ったことではありません。
それでも、わたしたちはある関係を見て、「これは家族だ」と感じます。そこには、血縁、同居、扶養、記憶、世話、責任、愛情、習慣、法制度、生活の共有といった、いくつもの要素が重なり合っています。
しかし、それらのすべてがそろっていなければ家族ではない、というわけではありません。いくつかが重なっていれば、わたしたちはそこに「家族らしさ」を見ます。
ここで重要なのは、「家族」という言葉が、ひとつの中心的な本質によって成り立っているのではなく、複数の似通った関係の重なりによって成り立っているという点です。
つまり、家族とは、固定された実体というよりも、さまざまな関係の束として現れているのです。
ヴィトゲンシュタインの「家族的類似」
この見方を考えるうえで、後期ヴィトゲンシュタインの「家族的類似(Familienähnlichkeit)」という考え方は大きな手がかりになります。ヴィトゲンシュタインは、「ゲーム(Spiel)」という言葉を例に挙げました。
チェス、サッカー、トランプ、子供の遊び。こういったものはゲームです。けれども、それらすべてに共通する本質を探そうとすると、うまくいきません。
勝敗があるものもあれば、ないものもある。競争があるものもあれば、ないものもある。ルールが厳密なものもあれば、曖昧なものもある。一人で行うものもあれば、複数人で行うものもある。このように、その形態は様々です。
それでも、わたしたちはそこに「ゲームをやっている」と感じ取ることができます。。
なぜなら、それらはひとつの共通本質によって結ばれているのではなく、互いに少しずつ似通いながら、重なり合う関係をつくっているからです。ヴィトゲンシュタインは、このような言葉の成り立ちに注目しました。
言葉の意味は、その背後に隠された本質によって決まるのではありません。その言葉が、実際の生活の中でどのように使われているかによって決まるのです。
この視点から見れば、「家族」という言葉もまた、ひとつの本質によって定義されるものではありません。むしろ、生活の中で繰り返し用いられることによって、その意味の輪郭を保ってきた言葉だと言えます。
現代は「本質が壊れた時代」なのか
現代社会では、家族、結婚、労働、幸せ、自分らしさなど、さまざまな言葉の意味が揺らいでいます。そのたびに、わたしたちは「昔ははっきりしていたのに」と感じます。
けれども、本当に昔ははっきりしていたのでしょうか。あるいは、はっきりしていたように見えていただけなのでしょうか。
かつては、家制度、地域共同体、宗教的慣習、会社組織、性別役割、年齢秩序などが、人々の生活を強く支えていました。それらは個人にとって息苦しいものであった一方で、言葉の意味を安定させる働きも持っていました。
上記に挙げた言葉に「こういうものだ」という共通了解が、社会の中に存在していたのです。
しかし、その共通了解は、必ずしも本質ではありませんでした。それは、その時代の生活形式が生み出していた、一時的な安定だったような気がします。
だとすれば、現代において起きていることは、「本質が壊れた」というよりも、「本質があるように見えていた条件が崩れた」ということになります。
本質が失われたのではない。本質があると信じられていた足場が、少しずつなくなっていったのです。そして、そのとき人は不安になります。なぜなら、わたしたちは言葉の中に安心を求めるからです。
「家族とはこういうものだ」と言えれば、安心でき、「幸せとはこういうものだ」と言えれば、迷わずに済み、「自分らしさとはこういうものだ」と言えれば、自分を説明できます。
けれども、その言葉が揺らぎ始めると、人は足場を失ったように感じます。現代の不安の一部は、ここにあるのではないでしょうか。
「幸福」も「自分らしさ」も揺らいでいる
この問題は、家族だけに限られません。たとえば、「幸福」という言葉があります。かつて幸福は、ある程度わかりやすい形で語られていました。
よい学校に入り、安定した仕事に就き、結婚し、家を持ち、子どもを育て、老後を迎える。もちろん、それがすべての人に当てはまったわけではありません。しかし、社会の中には、幸福の標準的な物語がありました。
現代では、その物語が弱くなっています。それ自体は悪いことではありません。人は、かつてより自由に生き方を選べるようになりました。けれども、自由が増えたにもかかわらず、人は必ずしも楽になっていません。
なぜなら、幸福の標準形が失われた後も、人はなお「本当の幸福」を探そうとするからです。どこかに正解があるはずだ。自分に合った生き方があるはずだ。本当の自分らしさがあるはずだ。そうして、探し続けることになります。
ここでもまた、「本質を求めるこころ」が働いています。「幸福」という言葉にも、ひとつの本質があるわけではありません。人によって、状況によって、年齢によって、関係によって、幸福の形は変わります。にもかかわらず、わたしたちは「本当の幸福」を探そうとします。
「自分らしさ」も同じです。自分らしさとは、何でしょうか。性格、才能、価値観、過去の経験、他者との関係?どれも、自分らしさを形づくる要素ではあります。しかし、それだけが自分らしさの本質だとは言えません。
むしろ、自分らしさとは、固定された中核ではなく、そのつどの関係や状況の中で立ち上がるものです。それなのに現代人は、自分の内側に、何か変わらない「本当の自分」が眠っているかのように考えます。
そして、それを見つけられないことに苦しみます。ここに、現代的な苦しみの一つがあります。
言葉が自由になったのに、こころはかえって不安になる。選択肢が増えたのに、決められなくなる。本質がないと知りながら、それでも本質を探してしまう。この矛盾の中で、わたしたちは疲弊しているのではないでしょうか。
「仏教」という言葉もまた一枚岩ではない
この視点を持ちつつ、もう一度このブログの主要テーマのひとつでもある「仏教」という言葉を考えてみます。わたしたちは何気なく「仏教」と言います。しかし、仏教とは何かと問われると、その答えは容易ではありません。
初期仏典に見られるお釈迦さまの思想。部派仏教の精密な理論体系。大乗仏教の菩薩思想。禅の実践。浄土教の信仰。密教の儀礼。日本に根づいた先祖供養や葬送儀礼。
これらはすべて、広い意味で仏教と呼ばれています。しかし、それらすべてに共通する単一の本質を取り出そうとすると、たちまち難しくなります。
もちろん、三法印、縁起、無常、無我、苦といった思想的な核を見出すことはできます。けれども、歴史の中で展開してきた「仏教」という言葉の使用範囲は、それだけでは説明しきれません。
ある人にとっての仏教は——信仰、葬儀、供養、修行、哲学、こころを整える技法など、それらを複数持っているとすれば、その組み合わせは数多くあることでしょう。この多様さを前にして、わたしたちはしばしば問いたくなります。
「では、本当の仏教とは何か」
わたし自身もまた、その問いを抱き続けてきました。
けれども、ここでも注意が必要です。
「本当の仏教」を問うことは大切です。しかし、それが単純な本質探しになってしまうと、逆に見えなくなるものがあります。
歴史の中で「仏教」と呼ばれてきたものは、ひとつの本質がそのまま保存されてきたものではありません。むしろ、異なる土地、異なる生活形式、異なる不安、異なる制度の中で、そのつど形を変えながら受け取られてきたものです。
つまり、仏教もまた、一枚岩の実体ではなく、重なり合う実践と言葉の束として現れてきたのです。ここで、少し手前味噌で付け加えておけば、そのうえでなお、わたしはお釈迦さまの思想を問い直したいと思っています。
それは、「仏教」という看板の本質を守るためではありません。むしろ、長い歴史の中で装飾され、制度化され、信仰や儀礼に包まれて見えにくくなった、お釈迦さまの問いそのものを、現代の言葉で受け取り直したいからです。
お釈迦さまが見ていたもの
ここで、初期仏典の思想が見えてきます。
お釈迦さまが見つめていたのは、人が固定的な実体にすがろうとするこころの働きでした。
人は、そのように考えます。しかし、実際に観察してみると、わたしたちの身心は絶えず変化しています。
それでも、わたしたちはそこに「変わらないわたし」があると思い込みます。この思い込みが、執着を生みます。そして、執着が苦しみを生みます。
ここで見えてくるのは、ヴィトゲンシュタインとお釈迦さまの不思議な接点です。
ヴィトゲンシュタインは、言葉の背後にある本質を探す姿勢を疑いました。お釈迦さまは、経験の背後にある固定的な自我を疑いました。
ヴィトゲンシュタインは、言葉の意味を生活の中の用法に見ました。お釈迦さまは、存在を条件によって成り立つ縁起として見ました。
もちろん、両者を同じ思想として扱うことはできません。しかし、少なくとも次の点では交差しているように思います。それは、
という態度です。
それは、先に挙げた「家族」の本質であり、「幸福」の本質、「自分らしさ」の本質、「仏教」の本質、そして「わたし」の本質。わたしたちは、それらを探し続けます。そのような仕組みの中に生きています。
しかし、探せば探すほど苦しくなる場合があります。なぜなら、そこに固定された本質があるとは限らないからです。
本質を失ったのではなく、関係が見え始めた
では、現代はただ不安な時代なのでしょうか。
わたしは、そうは思いません。
たしかに現代は、かつての自明性が失われた時代です。家族も、仕事も、地域も、宗教も、幸福も、自分らしさも、以前のような安定した輪郭を保ちにくくなっています。そのため、人は迷い、不安になり、どこに足を置けばよいのかわからなくなります。
けれども、別の見方をすれば、これは本質が壊れた時代ではなく、関係が見え始めた時代とも読み取れます。
家族とは、ひとつの固定された形ではなく、世話や記憶や責任や生活の重なりによって成り立つものだった。
幸福とは、社会が用意した一つの到達点ではなく、そのつどの関係とこころの状態の中に現れるものだった。
自分らしさとは、内側に隠された核ではなく、縁によって立ち上がる仮の姿だった。
仏教とは、単一の制度ではなく、苦しみを見つめる人間の営みの中で、幾重にも姿を変えてきた言葉だった。
そう考えると、現代の揺らぎは、ただ崩壊しているのではありません。それは、これまで本質だと思われていたものが、実は関係の束であったことを明らかにしているのです。
おわりに
わたしたちは、長い間、言葉の中に本質を探してきました。
家族とは何か。幸福とは何か。自分とは何か。仏教とは何か。人生とは何か。
その問いは、決して無意味ではありません。むしろ、人が生きるうえで避けて通れない問いです。けれども、その問いを立てるとき、ひとつだけ注意しなければならないことがあります。
それは、答えがどこかに固定された本質として隠れているとは限らない、ということです。わたしは、わたしたちが失ったと思っているものは、本質そのものではありません。本質があると信じていられた時代の安心感だと思い直しています。
そして、その安心感が失われたとき、わたしたちは初めて、ものごとを関係の中で見ることを迫られます。
家族も、幸福も、自分らしさも、仏教も、わたし自身も、単独で存在しているのではない。それらは、言葉の使われ方、生活の形式、他者との関係、記憶、制度、身体、こころの状態の中で、そのつど立ち上がって姿を現します。
これは、しっかりとした自己を持ち、世界観をその自己から構築していくよう育ってきたわたしたちにとって、ある意味より不安でカオスな見方に振れてしまいそうです。
しかし同時に、解放の見方と捉えることができます。本質への思い込みを無くしていくことは何より自由な心持ちがしませんか。
しかし、注意して頂きたいのは、本質がないからといって、何でもよいわけではありません。本質がないからこそ、いま目の前にある関係をよく見る必要があるのです。
本質を探すこころは、しばしば遠くを見ます。けれども、縁起を見るこころは、いまここにある条件を見ます。何が重なり、何が離れ、何が生じ、何が消えていくのか。
そこに目を向けるとき、わたしたちは「本当の何か」を探し続ける苦しみから、少しだけ離れることができます。現代は、本質が失われた時代ではありません。本質という幻想がほどけ、関係の網目が露わになった時代なのです。
そして、その網目の中にこそ、わたしたちが生きている現実があります。

