はじめに
前回、「家族」という一語を手がかりに、言葉の意味を支えていた生活の土台が複数化した時代について考えました。意味が壊れたのではなく、意味を当然のものにしていた状況が変化していったことが、前回の結論でした。
しかし、結論はそこで終われません。土台の複数化それ自体は、ただの事実です。事実が、なぜ苦しみに変わっていくのか。ここが、わたしの中にある課題です。
「家族」が人によって違うものを指す。「幸せ」の中身が定まらない。「自分らしさ」が掴めない。そのときわたしたちの内側で、ほとんど反射のように、ある問いが立ち上がります。
それでは、本当の意味は何なのか。本当の家族とは。信仰とは。真理とは。本当の自分とは。この「本当の」を追い求める人の性とも言える深層心理。
複数あるものの背後に、唯一の正解を求めてしまう。この働きこそが、揺らぎを苦しみに変換する装置とでも言うものであり、今回の記事の本題です。
わたしも多分に漏れずこうした本質を求める「問い」に囚われていました。この「本質を求めてしまう性」、それは避けられないのか?そこを見ていきます。
問いは、選ぶ前に始まっている
初期の仏典に、思考の発生を段階的に解剖した経典があります。何かに触れ、感受が起こり、像を結び、考えをめぐらせる流れがわたしたちの中に起こっているとしています。ここまでは、わたしたちの実感と変わりません。
しかし経典では、その先に奇妙な一行を見出すことができます。めぐらせた考えはやがて増殖し、増殖した想念がその人に襲いかかる、と(マドゥピンディカ経(MN 18))。
注意したいのは、文法の転換です。この人のこころの一連の流れの中で「感じる」「考える」までは、人が主語でした。ところが最後の段階では、人は目的語に転落しているのです。これは、要約すればどういうことかというと、「考えているつもりが、いつのまにか考えに考えさせられている(考えに襲われている)」、と解釈されます。
まるで禅問答のようなこの文法の転換にこの経典の要点があります。
「本当の意味は何か」という問いも、実はこの増殖の産物として現れるのです。つまりそれは、わたしたちが熟慮の末に選んだ問いではない。何かの考えに触れてから、それが増殖するまでの連鎖が自動的に走り、気づいたときにはすでに、答えのない問いの中に立たされている。
ふと生まれた問いから突然、突き放されて、挙句の果ては路頭に迷わされ、不安に駆られている自分に気づいてしまうような仕組みがそこにはあります。
そして、避けられるのか、という問いへの答えの半分は、ここにあります。連鎖そのものは、意志で止められる種類のものではありません。
二千数百年前のテキストは、本質への問いを「悪癖」ではなく、条件が揃えば必ず走り始める過程として描いています。やめようと決意して、やめられるものではないのです。
言葉そのものが誘惑する
二十世紀の哲学者ウィトゲンシュタインは、同じ働きを別の角度から記述しました。彼はそれを「一般性への渇望(craving for generality)」と呼びます。誤りではなく、渇望と。この欲望の語彙で語ったところに、この哲学者の洞察の確かさがあります。
仕掛けは言語そのものに埋め込まれている、と彼は考えました。「家族」という名詞がある。名詞があるなら、それが指す一個のモノ【すべての家族に共通する核】があるはずだ。この経緯を前回の記事で取り上げています。
言葉の表面の文法が、そう絶えずささやいてくる。けれど実際に個々の使われ方を見ていけば、そこにあるのは共通の核ではなく、部分的に重なり合う類似の網目だけです。
だから彼にとって、哲学は一回限りの治癒ではありませんでした。誘惑は言語を使うかぎり繰り返し訪れる。哲学者は問いを病気のように扱う、と彼は書いています。完治はない。症状が出るたびに、手当てをし直すだけです。
古代インドの修行者と、二十世紀ウィーンの哲学者。渇愛の語彙と、渇望の語彙。まったく別の場所から、ほぼ同じ診断が下されていることになります。
結果的に、本質への問いは、知性の不足から生まれるのではなく、以下のように発生していくことになります。
現代社会が助長する渇望
ただし現代には、古代のテキストが知らなかった条件がひとつ加わっています。この渇望が、収益の源泉になっているという条件です。
広告が売っているものを、よく見てください。商品そのものであることは、むしろ稀です。売られているのは「本当の豊かさ」であり、「本物の味」であり、「ほんとうの自分に出会う」体験です。
つまり、本質の約束。本来持っていると想像していた本当の言葉の意味が外れて生じた不安、あの「本当は何なのか」という渇きこそが、市場は商品化しようとしている。
ここで前回の結論が反転し始めます。自明性の剥落は、ただ起きた出来事ではなく、維持されるべき状態になった。不安が需要であるなら、不安は解消されるより再生産されるほうが都合がいい。このような答えを市場経済は吐き出しました。
「本当の答え」は常に提示され、常に少しだけ手の届かない場所に置かれる。次の商品が、次の答えを約束するために。
この問いに、もう半分の答えが加わります。先に述べたように内側の連鎖は自動的に走り、外側の構造、すなわち市場の動力はその連鎖を養分にしている。内と外から挟まれて、この習性は二重に手放しがたいものになっているのです。
健康に食事、自分や家族、世界に死後、そして宗教に真理。本質を持っていそうで、通貨に変わりそうな言葉は、たくさんこの世に存在しているのです。そして、その言葉の商品に類似の網目を足していく、この構造の中にわたしたちは常にさらされています。
問いを解くのではなく、問いの出自を読む
では、その時、人はどうあればいいのか。
手がかりは、仏陀自身の振る舞いにあります。
「世界は永遠か」
「死後に自己は存続するか」
本質をめぐる問いに対して、彼は答えませんでした。
沈黙したのは、知らなかったからではありません。どう答えても、問いの立て方そのものに巻き込まれるからです。
彼が残したのは、そういう譬えでした。
ウィトゲンシュタインの処方も、同じ形をしています。
「本当は何か」と頭上を仰ぐ代わりに、足元の使われ方を見る。この語は、いま、ここで、誰によって、どう使われているか。
そして、現代ならこうも付け加える可能性がでてきます。その使われ方で、誰が利益を得ているか。つまり、応答とは問いに答えることではなく、問いの向きを変えることです。
「本当の家族とは何か」という問いが胸の内に立ち上がった瞬間、それを解くべき謎としてではなく、「何がそこに起こり始めているのか」と、読むべき客観的な証拠がないか考えてみる。
ああ、いま連鎖が走ったな。この流れからの渇きは、どこから触発されたのか。誰かがこの渇きを使って、誘導しようとしていないか、または何かを売ろうとしていないか。
おわりに
本質を求める性は、消えません。消えないことを、古代の経典も近代の哲学も、口を揃えて認めています。
けれど、問いに襲われることと、問いに従うことは、別のことです。答えの見つからなさを嘆く必要はありません。見つからないのは、探し方が足りないからではなく、最初から「答え」という形のものが、そこになかったからです。
揺らぐ言葉とともに生きる作法があるとすれば、それは正解を取り戻し求めることではなく、「正解があるはずだ」というささやきを、ささやきとして聞き分けることから始まるのだと思います。


