ブログについて——最終改訂版

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当初、このブログをはじめたのは、わたしが寺院で体験した様々なことを残しておこうと思い立ったのがきっかけでした。

備忘録として残していく一方で、たまたま記事を目にした方にも、目に見えない世界の現象を通して、見える背後に隠された世界の一端でも触れることで、この世を別の角度から捉え直して欲しいと思っていました。

出家から十数年経た今。様々な経験を超えていくにつれ、ブログの内容は様変わりしていきます。それは、言語化するのは難しいのですが、目に見えない世界を取り巻く、さらに大きな流れを観てしまったため——とでも言えば良いのでしょうか。

そこから、本ブログの記事の方針は次第に変わっていきました。目に見えない世界の事象をいくら書き残しても、意味がないことに気が付いたためです。

方針転換したわたしが最近の記事の中で現代の思想家や哲学者を引き合いに出してきたのは、思想を飾るためではありません。

初期仏典に見られるお釈迦さまの思想を、現代の言葉で問い直したかったからです。

人は、生まれながらにして「苦しみ」を抱えています。
その苦しみは、時代が変わっても消えることはありません。

しかし現代では、その苦しみが見えにくくなっています。市場経済、効率、自己責任、若さ、生産性、成長といった言葉の陰で、人間が本来向き合わなければならない生老病死の問題が、少しずつ遠ざけられています。

一方で、お釈迦さまの思想もまた、仏像や宗教という既成の枠に封じ込められ、信仰や呪術に覆われてきました。そのため、現代人にとって、それは自分のこころに直接関わる思想として受け取りにくくなっています。

人の一生はせいぜい百年。死に至る病は生まれてることで既に始まっています。その病を癒そうと、人々は拠り所を探し、宗教においては信仰があるわけです。

これらはすべてモルヒネのようなものだとわたしは思っています。死に至る病を和らげ穏やかにする薬です。しかし、効き目は限定的。社会的な役目や信仰が途切れてしまえば、元に戻ってしまいます。さらに言えば、モルヒネというのは生きている間しか効果がないのです。

お釈迦さまが示されたのは、苦しみを観察するための「道」でした。しかしその道は、繰り返し踏み荒らされ、今や不毛の地と化していると言ってもよいでしょう。

その道を指し示すために仏教は生まれたはずですが、その現状については、もはや言葉を継ぐ必要さえ感じられません。

わたしが取り戻したいのは、宗教として飾り立てられた仏教ではありません。ましてや、縁起のかすかなはたらきの中に見える、神の恩恵に彩られた事象の残像でもないのです。

人の苦しみを見つめ、その苦しみがどのように生じ、どのように解消されうるのかを見極めようとした、お釈迦さまの生きた思想です。

その思想を、現代の言葉で、現代の問題として、もう一度問い直していきたい。それが、わたしがこれまで書いてきたものの根底にあり、これからも進めていきたいライフワークなのです。

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