宮澤賢治『春と修羅』に見る、この世の揺らぎ

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はじめに

宮澤賢治『春と修羅』から零れ落ちてきた現象学と初期仏典のお話しをあえて論理的に書きました。今回は、「詩らしく」全体に感じ取られたことを日常に則した形で書いておきたいと思います。

この詩は、春を扱っているはずなのに、明るく穏やかで抒情的な風情とはなっていません。むしろそこには、ざらつき、屈曲、息苦しさのようなものが漂っています。どこかきしんでいて、揺れていて、そして見る者の内側に雪崩れ込んでくるようにも思えます。

この詩に触れていると、わたしたちは単に自然を見ているのではなく、こころを通して現れてきた世界を見ているのだと思わされます。

世界は、ただ客観的にそこにあるのではない。そのときの「わたし」のあり方と切り離せないかたちで、世界はその都度ちがった相を見せる。『春と修羅』の冒頭には、その事実がむき出しのままであるかのようです。

風景は、そのまま見えているわけではない

『春と修羅』の冒頭にある風景は、明るく澄んだ春景色ではありません。そこには屈折があり、ざらつきがあり、息苦しさがあります。

なぜそう見えるのでしょうか。

それは、風景そのものが歪んでいるというよりも、風景が「わたし」を通して現れているからです。悲しいときには世界全体が沈んで見え、苛立っているときには周囲の気配まで刺々しく感じられることがあります。逆に、こころが少しほどけている日は、同じ道でもやわらかく見えることがあります。

つまり、わたしたちは普段、自分では「世界をそのまま見ている」と思っていますが、実際にはそうではありません。世界はいつも、自分の状態と無関係には見えていないのです。

「修羅」とは、遠い異界の話ではない

『春と修羅』という題名の「修羅」は、仏教用語です。一般には、争いや怒りの世界を連想させる言葉でしょう。

けれどもこの詩を読むと、「修羅」とは何か特別な異界ではなく、わたしたちのふだんのこころの状態そのものであると改めて感じさせられます。

  • 人と比べて傷つく。
  • 理解されないと思って腹を立てる。
  • 認められたいのに認められず、悔しさを抱える。
  • 手放せない思いに苦しみながら、それでも握りしめてしまう。

こうしたこころの機微は、誰もが一度は経験したことではないでしょうか。そうした状態にあるとき、わたしたちは決して穏やかな世界に住んでいるのではありません。見えている風景そのものが、すでに揺れ、濁り、きしんでいます。

お釈迦さまが見つめた「苦しみ」も、まさにこのようなところにあります。苦しみは、外から襲ってくる出来事だけを指すのではありません。それに触れたとき、こころがどう動き、どう反応し、どう世界をつくり変えてしまうか。問題は、そこにあります。

世界とは、経験・環境・境遇等様々な縁が合わさって、自分ひとりで作り上げているものだからです。『春と修羅』は、その動きを理屈ではなく、詩として露わにしています。

世界は「物の集まり」ではなく、「関係性」から来る

この詩を読んでいると、世界は単純に「そこにある物の集まり」ではないように思えてきます。

光、空気、草、湿り気、身体の感覚、感情、記憶。それらがすべて絡み合いながら、そのときどきの世界を形づくっている。つまり、世界とは完成した舞台ではなく、関係のなかでそのつど立ち上がってきます。

これは仏典でいう縁起の感覚にもどこか通じていると前回言いました。自分だけが独立して存在しているのではなく、周囲の条件、身体の状態、過去の経験、いま触れたものとの関係の中で、「わたし」も「世界」も成り立っている。

「わたし」が固定されたものでなければ、人の「苦しみ」もまた固定されたものではなくなります。いま見えているこの重たい世界も、絶対にそうでなければならないわけではない。条件が変われば、見え方も変わっていきます。

『春と修羅』が教えてくれること

『春と修羅』は、春を明るく賛美する詩ではありません。しかしだからこそ、この詩は人のこころに触れます。

わたしたちは、いつも整った世界に生きているわけではありません。むしろ、揺れた世界、歪んで見える世界、言葉にしにくい不快さを帯びた世界の中で生きています。

賢治は、それをごまかしませんでした。自分の内側にある苦さやざらつきをそのまま引き受け、そのうえで見えてきた世界を書いたのです。

おわりに

世界は、ただそこにあるだけではない。「わたし」を通して現れてくる。そして「わたし」自身もまた、固定した実体ではなく、揺れ動く現象のひとつである。

人々における「苦しみ」を受け取る度合いは、このことをどのくらい自らの腑に落としてきたかの差です。

ここで言いたいのは「こころの持ちようを変えた方が良い」という話ではありません。ただ、いま見えている世界だけが世界のすべてではない、ということです。

人は往々にして、苦しみの只中にいるとき、その苦しみを絶対のものとして握りしめてしまいます。『春と修羅』は、そのことを春の光の中であって戒めとして語っているように思います。

そう考えると、この詩はただ暗く激しいだけの作品ではありません。むしろ、苦しみの経験をとおして、「世界の見え方」と「わたしの在り方」を問い直すための詩だと言えるでしょう。

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