はじめに
世間は初夏の様相、ここ福岡では桜はとうに散り終え、ツツジもそろそろ満開といったところです。不順な天候に春を感じ、寒暖の差がカラダに応えています。
さて、春になると、なぜか宮沢賢治の『春と修羅』が思い浮かびます。彼が生前に刊行された唯一の詩集です。今回と次回の2回に渡り、宮澤賢治の『春と修羅』の冒頭を中心に、この詩の持つ奥深さをわたしなりの解釈で書いておきたいと思います。
この詩から受ける2大水流
『春と修羅』の序を読むと、わたしたちはただ春の風景を見ているのではないことに気づかされます。

「序」の冒頭は次の一句からはじまります。
「わたくしといふ現象は」。
この一行を初めて読んだとき、多くの人は一瞬、立ち止まるのではないでしょうか。「わたし」は現象なのか。存在ではなく、現象。モノではなく、起きていること。
宮澤賢治が詩集『春と修羅』の第一集冒頭に据えたこの「序」は、1924年に書かれました。ちょうど100年前のことです。けれどもこのテキストには、西洋哲学が20世紀を通じて格闘した問いと、初期仏典が2500年前に見つめていた人間の本質とが、不思議なほど自然に溶け合っています。
賢治はそのどちらの専門家でもありませんでした。花巻の農学校で教壇に立ち、土壌を調べ、子どもたちと野山を歩いた人です。
にもかかわらず——彼の言葉は、理論が届かない遠いところにいながら、カントが開いた問いをフッサールが深めた自我の意識への洞察と仏典が突き詰めていた人間論——賢治はその両方の先に立っているといっても過言ではありません。
「わたし」は灯りである
序の冒頭はさらにこう続きます。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)
ここで賢治は三つのことを同時に言っています。
- 第一に、「わたくし」は現象です。
-
確固とした実体ではなく、何かが起きている、その起きていること自体が「わたし」なのです。
- 第二に、その現象は「交流」電燈です。
-
直流ではありません。つまり一定の状態にとどまらず、絶えず振動し、変化し続けている。そして「有機」——それは生きているということです。
- 第三に、その正体は「透明な幽霊の複合体」です。
-
一つひとつは目に見えない、掴めない。けれどもそれらが重なり合うことで、「ひとつの青い照明」として灯っています。

この描写を読んで、わたしはある種の既視感を感じていました。
フッサールが見た「意識の流れ」
賢治がこの序を書いた時代、ドイツではエトムント・フッサールという哲学者が、まさに「意識とは何か」を根本から問い直していました。西洋哲学で20世紀を通じて格闘した問いの中で、彼の答えはこうでした——意識とは、何かに向かう運動である。
わたしたちは「意識そのもの」を取り出すことができません。意識はつねに何かについての意識としてしか現れません。窓の外の雨音を聞いている意識、文章を読んでいる意識、なんとなく不安を感じている意識。意識は対象に向かって「流れる」ことでしか存在しない。フッサールはこれを「志向性」と呼びました。
さらにフッサールは、この意識の流れに独特の時間構造があることを見出しました。今この瞬間に何かを経験しているとき、直前の経験はまだ完全には消えていません。余韻のように意識の中に保たれています。同時に、次に来るものへの微かな予感が、現在の経験を先へと引っ張っている。
つまり、「今」は決して孤立した一点ではないのです。過ぎ去りつつある直前と、来たりつつある直後とが重なり合い、その重なりそのものが「現在の経験」を形作っています。
ここで、賢治の「明滅」という言葉の書かれた部分を書き出してみます。
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
灯りは一瞬ごとに消え、また灯ります。交流電流が生み出す明滅は、わたしたちの目には連続した光に見えます。けれどもその実態は、点いては消え、消えては点く、果てしない反復です。
フッサールが記述した意識の時間構造と、この「明滅」は、驚くほど似た構造を持っています。連続しているように見えて、実はひとつひとつが生まれては消えていく。そしてその生滅の連なりが、「たしかにともりつづける」という感覚——つまり「わたしがいる」という実感——を生み出すのです。
仏典が語る「縁起」と「生滅」
ところで、賢治がこの詩で用いた言葉には、もうひとつの流れを見出すことができます。
「因果交流電燈」——この「因果」は、仏典の根本思想に他なりません。初期仏典、とりわけ相応部経典(パーリ語の経蔵の一部)は、繰り返しこう説きます。
これが「縁起」と呼ばれる思想の骨格です。あらゆるものは他のものとの関係の中で生じ、関係が変われば自らも変わる。独立して、それ自体として存在するものは何もない。
賢治の「交流電燈」は、まさにこの縁起の詩的な表現ではないでしょうか。電燈は電流がなければ灯りません。電流はフィラメントがなければ光になりません。そしてその光は、周囲の闇があってはじめて「照明」として意味を持ちます。すべてが相互に依存し合い、その依存関係の結節点として、ひとつの灯りが現れているのです。
さらに、「透明な幽霊の複合体」という表現は、仏典の「五蘊(ごうん)」——身体的感覚、受け取る感じ、概念的な認識、意志的な反応、そして意識——を思わせます。
五蘊はそれぞれ「わたし」ではありません。けれどもそれらが束になって動くとき、「わたしがいる」という感覚が生まれます。個々は透明で掴めないけれど、複合すると「青い照明」になる。
「五取蘊」といって執着の対象ともなってしまう「五蘊」というのは、まさに幽霊みたいなもので、言い得て妙です。
そしてその照明は「明滅」します。仏典の言葉で言えば「生滅」——生じては滅し、滅しては生じる。刹那ごとに現れ、刹那ごとに消えます。この生滅の速度があまりに速いために、わたしたちは自分が連続した存在だと錯覚するのです。ちょうど、交流電燈の光が連続して見えるように。
二つの思想が重なるところ
ここでこの二つの見方をまとめてみたいと思います。
- ◇現象学は言います
-
「わたし」とは、意識の流れが織りなすパターンである。過去の余韻と未来への予感が、今この瞬間に重なり合い、その重なりが「わたしの経験」を構成する。
- ◇初期仏典は言います
-
「わたし」とは、諸条件が縁って生じた一時的な現象である。条件が変われば「わたし」も変わる。固定された自己など、どこにもない。
- ◇賢治は言います
-
「わたくしといふ現象は」。
三者は、表現の道具も、思考の伝統も、まったく異なります。けれども指し示している方向は同じです。「わたし」は実体ではなく、過程です。モノではなく、出来事です。あるいは賢治の比喩を借りるなら、電球ではなく、照明——灯っている、その灯り方そのものが「わたし」なのです。
賢治が見た「記録」の儚さ
序の後半で、賢治は思索をさらに広げます。
けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに(あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
書き留めた言葉すら、書いた瞬間から変わり始めます。紙の上のインクは同じでも、読む人の意識は変わり、時代の文脈は変わり、言葉の意味は変わる。
文字に残すことの危うさについては、過去に記事にしています。
この節は、ある深い洞察があります。わたしたちは「記録すれば残る」と思っています。写真を撮り、日記を書き、SNSに投稿する。けれども賢治は、記録そのものが「明滅」していることを見抜いていました。記録は固定されたモノのように見えて、実は読まれるたびに新しい意味として生まれ直しているのです。
これもまた、現象学と仏典の双方が指摘してきたことでした。フッサールの弟子たちは、テキストの意味がつねに読む側の意識に依存することを論じました。仏典は、あらゆる認識が条件づけられていること——わたしたちは世界を「あるがまま」には見ていない——を繰り返し説いてきました。
賢治はそれを、地質学の比喩で語ります。二千年後の人々は、まったく別の証拠に基づいて、まったく別の過去を「発見」するでしょう。わたしたちが確実だと思っている知識も、時間のスケールを変えれば、ひとつの明滅に過ぎません。
「第四次延長」——すべてを貫く時間
序は、こう締めくくられます。
すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
「第四次延長」とは、時間を含んだ四次元の広がりのことです。賢治の時代、アインシュタインの相対性理論が世に出たばかりでした。空間の三次元に時間を加えた四次元——その中で、心象も言葉も知識も、すべてが変化し続けています。
けれどもこの「第四次延長」を、単に物理学の話として読む必要はありません。
賢治がここで言おうとしているのは、おそらくもっとシンプルなことです。わたしたちの経験は、つねに時間の中にある。過去の記憶と未来への予感に貫かれた「今」の中で、わたしたちは感じ、考え、言葉を紡いでいます。そしてその「今」自体が、絶えず流れ、変わり、次の「今」に取って代わられていく。
その流れの中に、わたしはいます。あるいは、わたしたちは「流れそのもの」なのです。
おわりに
わたしたちは今、賢治の時代とは比較にならない速度で「明滅」する世界に生きています。
スマホの画面は毎秒60回、光を明滅させています。SNSのタイムラインは絶え間なく更新され、昨日の投稿はもう「過去」になります。モノや自撮り写真を加工し、プロフィールを書き換え、「いいね」の数で自分の立ち位置や輪郭を確かめる。
けれどもそのとき、わたしたちは何を確かめているのでしょうか。
賢治の言葉に立ち返るなら、「わたくしといふ現象」は、そもそも確かめて固定できるようなものではありません。掴んでは流れ落ちていく「一握の砂」です。それは灯りであって、電球ではない。灯り方そのものであって、灯りの源ではないのです。
この洞察は、絶望であるとは思いません。むしろ、ある種の解放です。
「わたし」が固定された実体なら、それが揺らぐことは恐ろしいでしょう。けれども「わたし」がもともと明滅する照明なら、揺らぐことは本性であって、欠陥ではありません。風景や人々と共に明滅し、その明滅の中で「いかにもたしかにともりつづける」こと。それが、賢治が見出した「わたし」の在り方です。
立ち止まって、自分の呼吸に注意を向けてみてください。吸って、吐いて。そのひと呼吸のあいだにも、無数の感覚が生まれては消えています。それでも呼吸は続いています。「灯りつづけて」います。
100年前、花巻の一人の教師が見抜いたこの世の成り立ちは、スマホの明滅に目を奪われ、流れゆく事象に囚われてしまいがちなわたしたちに暗示しているように思います。
——あなたは現象です。そしてそれで、いいのです。





