「みんなのため」がうまくいかないのはなぜか——集合行為問題

目次

はじめに

日本は社会的秩序が他国に比べて自然に統制されている数少ない国のひとつです。

わたしたちは、誰に言われることなく整然と並んだり、ゴミの散乱していない日常生活を、当たり前のように過ごしています。

こんな社会に対して、居心地が良いと感じる人がいれば、息苦しいと感じる人もいます。そこには、秩序というより空気感と感じる場合もあるため、ある種の拒否感を抱くのかもしれませんが、今回はあくまで集団的な秩序を旨としているため対象外といたします。

さて、同じ日本に住んでいても、外国人が多く住む地域では、ゴミの分別や投棄の問題が度々発生します。これは、数の多寡がありますが、同じ日本人でも同じ問題が生じる場合があります。

電車で降りる人を待たずに乗り込む人がいます。「会議で誰も発言しない」というのは、会議に出席した経験のある人であれば、よく見てきた光景です。地球温暖化、環境破壊は一向に止まる気配がありません。

これらは、規模は違えど、ある共通する構造を持っています。

「一人ひとりが自分にとって合理的にふるまった結果、全体が不合理な状態に陥る」——社会科学ではこれを集合行為問題(collective action problem)

と呼びます。

yahooに、このような記事がありました。

記事内では、「少子化」に関して、「集団行為」を取り上げていますが、少子化との接続の是非はともかくとして、このブログでは、この「集団行為」をもっと広い範囲で取り上げてみたいと思います。

この問題に対しては、政治学や経済学はさまざまな制度設計を提案してきました。罰則、インセンティブ、監視の仕組み。それらはたしかに有効です。

こうした問題の論点を前にして多くの社会科学に言えることですが、必ず「個人の行動の自由」が前提としてあります。その論点や視点などについて、2500年前のインドで語られた思想に基づいて、この問いにもう一歩踏み込んでみましょう。

集合行為問題の骨格——「囚人のジレンマ」から

集合行為問題を理解するために、よく使われるのが「囚人のジレンマ」という思考実験です。

二人の容疑者が別々に取り調べを受けています。互いに黙秘すれば二人とも軽い刑で済みます。しかし、相手が黙秘しているあいだに自分だけ自白すれば、自分は釈放され相手は重い刑を受けます。問題は、相手も同じことを考えている点です。結果、二人とも自白し、二人とも中程度の刑を受ける——協力すれば得られたはずの最善の結果を選ぶことはありません。

この構造は、二人の囚人に限った話ではありません。

それほど罪深くもなく、少し後ろめたいような公序良俗に反する行為を、誰でも「自分ひとりくらい…」と、ついやらかしてしまいがちです。

一方で、漁場の魚を誰もが獲りすぎれば、海は枯れます。誰もが「自分ひとりくらい」と排気ガスを出せば、空気は汚れます。個人の合理性の総和が、少しずつ全体の崩壊を招いていくのです。

上記の記事にも引用されていた経済学者マンサー・オルソンはこれを「集合行為のジレンマ」として理論化し、大きな集団ほどフリーライダー(ただ乗りする人)が生まれやすいことを指摘しました。誰でも大きな集団ほど個人は埋没しやすいと考えるからでしょう。

本当に「自分ひとり」きりならば、何も問題はありません。しかし、「自分ひとり」では済まされない社会に住んでいる以上、他者をひっくるめて、その中の自分を考えるのが自然の帰結です。

ここまでは、よく知られた話です。

お釈迦さまの思想に立ったものの考え方をするわたしからすれば、この問題の根にあるのは「制度の不備」と考えるよりは、「人間の見方そのもの」と捉えてしまいます。

「固定された自分」という幻——無我と相依性の視点

わたしは、社会集団とは、「思惑を巡らす個人」の集まりであると思っています。もちろん集団心理は存在しますが、それを含めても、集団的な諸問題はすべて個人の問題へと帰結していくと考えています。

そこから突き詰めていくと、西洋文明に覆いつくされた現代世界と初期仏典における「自我」を取り巻く考え方の違いに行き着きます。

初期仏典の中核にある洞察のひとつは、「固定された自己は存在しない」というものです。

これは神秘的な主張ではありません。よく観察すれば、「自分」と呼んでいるものは、身体の感覚、感情、思考、記憶、周囲との関係性——そうした流動的なプロセスの束であって、どこかに不変の「自分」が座っているわけではありません。

集合行為問題の前提を思い出してください。この問題は、「明確な境界を持つ個人が、固定された自己利益を追求する」という人間像の上に成り立っています。このように、社会科学を語る時は、常に「個人の行動の自由」が前提として横たわっています。

ここで問いが生まれます。

もし「自己」が固定されていないなら、「自己利益」もまた固定されていないのではないだろうか。

初期仏典が繰り返し説くのは、あらゆる現象は相互に依存して成り立っているということです。これが、「無我」から派生して成り立つ「縁起」です。ここで、重要なのは「縁起」が最初にあって、「自我」は後から立ち上がるという人間の根源的な存在論です。

漁師は海に依存し、海は生態系に依存し、生態系は無数の関係の網の目の中にあります。「自分の利益」を切り出そうとしても、それは網の目の一部をつまみ上げているにすぎません。つまんだ部分だけを見て「これが自分の取り分だ」と言うとき、網の目全体がどう歪むかを誰も見ようとはしません。

集合行為問題は、制度設計の問題であると同時に、個人の認識の問題でもあるのです。

貪・瞋・痴——「合理的判断」の内側にあるもの

もうひとつ、初期仏典が提示する道具立てがあります。人間を突き動かす三つの根本的な衝動——むさぼり、怒り、無知です。

集合行為問題における「合理的な個人」は、冷静に損得を計算しているように見えます。しかし本当にそうでしょうか。

自分ひとりくらい大丈夫だろう

これは計算ではなく、見たくないものを見ない無知

あの人が得をしているのに、なぜ自分だけ我慢しなければならないのか

これは損得勘定ではなく、怒りが判断を乗っ取っている。

もっと、もう少しだけ

これは最適化ではなく、むさぼりが上限を意図的に消している。

つまり、集合行為問題で「合理的」と呼ばれている判断の多くは、実はこうした衝動が背景にあって、それを「合理性」という言葉で後づけしているにすぎないように見えてしまうのはわたしだけでしょうか。

まとめ

集合行為問題に対する従来のアプローチは、「個人は自己利益を追求するものだ」という前提を受け入れた上で、制度やルールで行動を矯正しようとします。それは有効ですし、必要です。というか、現代においてはこれ以上の論理的な対策は不可能でしょう。個人に言及しても、個人は変われないし、変わらないからです。

しかし、初期仏典の視点はもう一層深いところに手を伸ばします。「無我」から派生する「縁起」は、そもそも「自分ひとりが利益追求する」構造ではありません。実はその構造の基でしか、「集団の中の自分」は成立しないからです。

「自己」の輪郭は、あなたが思っているほど明確ではない

「自己利益」の範囲を限定してしまうと、歪むのは周囲ではなく、自分の足元に帰ってくる。

「合理的判断」の内側には、自覚されない衝動(貪・瞋・痴)がある

それを見ないまま制度だけを整えても、人々の衝動は制度をかいくぐって別の出口を見つけ始める。

あらゆるものは関係の中で成り立っている

「自分の取り分」と「全体の持続」は、対立ではなく、同じ網の目の別の箇所にすぎない。

これは「みんなのために自分を犠牲にしましょう」という道徳的な説教ではありません。むしろ逆です。自分を正確に見れば、「自分」はすでに「みんな」と切り離せないという、観察に基づいた指摘です。

個人が変わらない、変われない以前に、個人の勝手な利益追求は、詰まる所、個人が求めている利益は合理的な行為ではないのです。

集合行為問題の解決に必要なのは、より良い制度だけではなく、「自分とは何か」を問い直す仕組み

日本には昔から「情けは人の為ならず」ということわざがあります。

人に親切にすることは、その人のためになるだけでなく、巡り巡って自分に良い報いが返ってくる

このことわざには、確固たる「自我」を前提としてしまっている懸念がぬぐえませんが、それでも人が根源的に繋いでいる関係性に一歩踏み込んだ優れた言葉です。

「集合行為」のより深いところにある仕組みについては、2500年前にすでに明らかになりました。この問題をことさら社会科学として論じなくても、初期仏典や日本の先人の智慧が、社会の中に於ける個人のあり方を既に説いているのです。

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