過去を振り返り未来を想うと、なぜかいまが見えなくなる

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はじめに

60代と聞いて、どのような暮らしを思い浮かべるでしょうか。やむを得ず働き続けている方々は別として、「生涯現役」という言葉に背中を押されるように、気づかぬうちに、なお社会の流れの中に身を置いてはいないでしょうか。

わたし自身は、現在63歳。いまは、家事を中心にしながら、ほぼ隠居に近い日々を過ごしています。それが良いか悪いかはさておき、人と会うことへの関心も、以前ほど強くはなくなりました。現役時代に結んでいた人間関係も、無理をせず、少しずつ距離を取るようになっています。

社会に生きていた頃、

「自分の生産性はどれくらいか?」
「自分の価値はどれほどか?」

こうした問いが、いつの間にか日常の揺るぎない基盤になっている人々に多く出会ってきました。仕事だけではなく、家庭のこと、体力のこと、若さのこと、SNSでの見え方まで、あらゆる場面で「評価」が入り込む時代です。

画像はイメージです。

この問いを持ち続けていると、こころは次第に追い詰められていきます。
「もっとやれたはず」
「まだ足りない」
「このままでは価値がない」

本当は生きているだけで充分であるにもかかわらず、今周りで起きていることや自分の呼吸や体温さえも、見えなくなってしまう。なぜでしょうか。ひとつの大きな要因は、わたしたちが人生を時間上の直線として捉えすぎていることにあります。

今回は、時間の流れに身を委ねながら歩んできた、その行き先を見つめてみたいと思います。

人生を直線にすると、「現在」が道具になる

時間というものは、わたしの人生における大きな問いのひとつです。そもそも、時間を意識として抱え込みながら生きているのは、おそらく人間だけなのではないでしょうか。

何気なく外を歩いているだけでも、そこには幼子から老人まで、それぞれ異なる時間の流れの中を生きる人々の姿があります。同じ道を歩き、同じ景色を見ていても、その一人ひとりが、生きている時間は決して同じではありません。

時間とは、次の瞬間には未来が過去へと移ろい、それをわたしたちが「いま」と呼び続けている、どこか不思議な概念なのだと思います。

人生をこの時間を尺度にして直線にしてしまうと、過去から未来へ向かって「進む」ことが正義になります。進むを突き詰めていくと、多くの場合「積み上げる」「増やす」「達成する」と同義に変わっていくことに気付きます。

  • 昨日より今日、今日より明日
  • できることを増やす
  • 成果を積み上げる
  • 成長を止めない

この枠組み自体が悪いわけではありません。問題は、直線が強くなりすぎると、現在が未来のための道具になってしまうことです。

本当は「いま、ここ」でしか生きられないのに、こころは未来の点数表へと引きずられていきます。結果として、いまの自分はいつも「仮の姿」です。

「本番は次」
「ちゃんとした自分は、もっと先」

一時期、「まだ、わたしは本気を出していない。」という言葉が流行ったことがあります。それは、「今」を更新し続けるひとつの自虐的なアンチテーゼだったようにも思えます。

ありのままの自分と向き合えないまま、時間だけが過ぎていくと、わたしたちは知らず知らずのうちに「仮の姿」に身を置き続けてしまいます。

その状態では、こころが定まらず、何か拠り所を求めたくなるものです。宗教的な支えが身近でなくなった現代では、コンプライアンスといった社会の規範や、特定の考え方が、その代わりとして受け入れられていく場面も少なくありません。

「成し遂げたもの」でしか、人を見られなくなる弊害

もうひとつの弊害は、人の価値観が「成し遂げたもの」中心に統一されていくことです。

ものさしは、人によってたくさんあります。何を手に入れたか、どれだけ稼いだか、どんな肩書きか、どれだけ若く見えるか、どれくらい「役に立つ」か、etc..

こうした物差しが支配的になると、人は人を「成果の束」として見るようになります。そして、他者をそう見るこころは、当然のように自分自身も同じ物差しで裁くようになります。

「わたしは何を達成したのか?」
「わたしは何者なのか?」

この問いが強くなればなるほど、自分の価値は不安定になり、不安感が増していきます。なぜなら、成果は状況で変わるからです。体調、年齢、環境、人間関係。どれも思い通りにはなりません。

つまり、成果で自分を定義すると、こころは常に揺れ続けます。揺れるこころでは、「ありのまま」を受け入れられなくなります。

人は「現在」でしか生きられない

ここで、大事な視点があります。

人は、現在でしか生きられません。過去も未来も、わたしたちが直接つかめるものではないのです。

もちろん、過去の出来事はありました。未来に備えることも必要です。ただし、わたしたちが日々苦しむとき、苦しませているのは多くの場合、過去そのものではなく「過去についての反芻(はんすう)」、そして、未来そのものではなく「未来についての不安の想像」になっています。

画像はイメージです。

つまり、過去も未来も、いまこの瞬間にこころが作っている像であることに気が付いていません。

この像に飲み込まれると、いまの自分は消えてしまいます。消えた「現在の自分」を取り戻そうとして、さらに成果へしがみつく。そして、時間の直線はますます濃く太くなっていきます。

「価値」を取り戻すとは、成果を否定することではない

ここで誤解したくない点があります。生産性や成果を否定したいわけではありません。

問題は、成果が「悪」なのではなく、成果が唯一の価値基準になってしまうことです。価値が一種類になると、人生の多くが切り捨てられます。

たまには休むし、迷いもするし、ぼーっと空を見上げ、寄り道だってする。

生産性のない、他人から見れば意味のない過ごし方、これらは時間の直線上では「無駄」に分類されやすいものです。そんな過ごし方ばかりでも困りますが、人生の厚みはむしろ、そうした日々の中で育ちます。

狭い範疇の中にたくさんの価値が乱立している。現代はそんな時代です。価値とは、本来もっと広いはずです。「成し遂げたもの」だけで人を判断しない。そして何より、自分を判断しない。

その姿勢の延長上に平穏な「いま」があります。

まとめ

生産性や成果という目に見える形は現代社会にフィットし説得力があります。しかし、それを自分の価値の中心に置いた瞬間、人生は細く頼りなくなってしまいます。時間上の直線に縛られ、現在は道具になり、ありのままの自分はいつも不合格になる。

人は現在でしか生きられません。過去も未来も、いまのこころに映る像として現れているにすぎない。だからこそ、いまここに戻るたびに、人生は少しずつ厚みを取り戻します。

あなたがもし、「価値」を探して疲れているのなら。今日だけは、成果を増やす代わりに、現在を増やしてみませんか。

人生は直線ではなく、面や立体に近いものです。今日できなかったことが、明日の深さになることがあります。遠回りが、関係を育てることがあります。休むことが、回復だけでなく「視野」を取り戻すことがあります。

ちょっとした現在の心掛けで、「時間の直線」という檻(おり)は少し柔らかくなるのです。

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