はじめに
以前の記事で、修行とは「わたし」を少しずつ小さくしていく営みだと書きました。
そして、「わたし」が小さくなるほど、「わたし」と「あなた」を隔てる境界線が薄くなり、他者の苦しみが自分の苦しみとして感じられやすくなる、とも言いました。
この見立ては、はたして経典に照らして正当なのでしょうか。今回はまず、この論点を最古層の経典に立ち返って確かめてみます。
そのうえで、もしこれが正当であるなら、現代に広く見られる信仰のかたち「信じることによって「わたし」を大きくし、その力で利他へ邁進していく修行の方向性」に、ひとつの疑義を投げかけてみたいと思います。
経典は何と言っているか
最古層の経典において、苦しみの根はどこにあると診断されているでしょうか。
ある古い詩句は、とめどなく増殖していく思考の根本を「『わたしはある』という思い」だと名指し、その根こそを引き抜くようにと説いています。修行の中心には、はじめから「わたし」の解体が据えられていたのです。
では、その解体と慈悲とは、どうつながるのか。
よく知られた慈しみの経は、「母がひとり子を命がけで守るように、生きとし生けるものすべてに対して、量ることのできないこころを育てよ」とあります。ここで注目したいのは「量ることのできない」という言葉です。
慈悲は伝統的に「無量」と呼ばれるこころの働きに数えられてきました。量れないとは、境界がないということです。「ここまでがわたし、ここからがあなた」という線引きが薄れたぶんだけ、こころは量れないものへと近づいていきます。
もうひとつ、古い詩句にはこうあります。「すべての生きものは暴力におびえる。わが身に引き比べて、殺してはならず、殺させてはならない」。他者の痛みを知る方法として経典が示すのは、「わが身に引き比べる」こと。すなわち、自分を物差しにして他者を測ることでした。
この物差しが効果を発揮するのは、「わたしの痛み」と「あなたの痛み」が同じ種類のものだという前提が生きているあいだだけです。「わたし」が固く大きくなり、「わたしの痛みは特別だ」となった瞬間に、この物差しは壊れてしまいます。
さらに体系的な経典では、こういう趣旨の説明が繰り返されます。
つまり、自我の縮小と慈悲の拡大は、たまたま並んで起きる二つの出来事ではなく、同じひとつの過程の裏表として描かれているのです。
「わたし」を小さくすることが、そのまま他者の苦しみへの回路を開く。この見立ては、経典の内在的な論理として、十分に正当だと言ってよいと思います。
逆向きのベクトル
さて、ここからが本題です。
現代の信仰の風景を眺めると、これとちょうど逆向きの力学で動いているように見える修行のかたちがあります。信じることによって「わたし」に力を与え、確信を与え、使命を与える。
小さく頼りなかった「わたし」が、信仰を得て大きく強くなり、その大きくなった力で人々を救いに行く。利他への邁進が、自己の拡大と一体になっている構図です。
このかたちは、たしかに人を動かします。落ち込んでいた人が立ち上がり、行動的になり、他者のために時間を使うようになる。その変化そのものを、否定するつもりはありません。
けれど、先ほど確かめた経典の論理に照らすと、ひとつの疑問が浮かんできます。
大きくなった「わたし」は、それだけ厚い境界を持ちます。厚い境界の内側から差し出される利他は、はたして相手の苦しみそのものに触れているのでしょうか。それとも、「救うわたし」という物語の材料として、相手の苦しみを必要としているのでしょうか。
救われる側から見れば、この違いは肌でわかります。
自分の苦しみをそのまま感じ取ろうとする眼差しと、自分を「救済の実績」として見る眼差しとは、まったく別のものだからです。後者において、他者は利他の対象でありながら、実のところ「わたしの信仰の正しさ」を証明する証拠として扱われています。それは、利他のかたちをした自己拡張です。
伝統は知っていた
興味深いのは、この危うさを、利他を旗印とする伝統そのものが、最初から知っていたことです。
よく知られた般若の経典には、こういう趣旨の言葉があります。
この警告は、外から持ち込まれたものではなく、伝統の内部に、はじめから刻み込まれていたのです。
ですから、ここで問うているのは、利他の教えそのものへの疑義ではありません。教えが本来そなえていた自己解体の契機を素通りして、信仰を「わたし」を膨らませるエネルギーとしてだけ使ってしまう、修行の方向性への疑義です。
信じることが悪いのではない。信が自我の解体へ向かうのか、それとも自我の増強へ向かうのか。ベクトルの向きこそが問題なのです。

おわりに
では、なぜ自己を拡大する型の信仰のほうが、これほど広がりやすいのでしょうか。
理由は、個人の資質ではなく、構造の側にあります。大きくなった「わたし」の利他は、目に見えます。行動量として、動員の数として、救済の実績として数えられ、共同体の中で承認され、その承認がさらに「わたし」を大きくしていく流れが、システムとして組まれる。
とても分かり易く、機能しやすい構図が出来上がります。組織としての形態を成していれば、なおさらです。
一方、「わたし」を小さくしていく修行は、外からはほとんど見えません。数えられず、誇れず、報告できない。可視性と成長を報酬として組み込んだ現代の仕組みの中では、前者だけが選び取られ、増幅されていくことになります。
経典が描いた慈悲への道(小さくなることではじめて開かれる道筋)は、この仕組みの中で、選ばれにくくなっています。個人に閉じたように見える修行を「縁覚(えんがく)」「辟支仏(ひゃくしぶつ)」として敬遠する。その大きな理由が、ここに集約されています。
信仰の熱量が高まるほど利他が語られ、利他が語られるほど「わたし」が大きくなっていく。この逆説を、いまの宗教の風景は、その内側に抱え込んでいるのです。

