はじめに
「ブッダを哲学として読む」そう聞くと、多くの人は少し身構えるかもしれません。
哲学は難しい。抽象的だ。日常生活とは関係がない。一方で、ブッダは宗教の開祖なのだから、哲学として読むのは違うのではないか。そんな違和感を覚える人もいるでしょう。
しかしわたしは、この身構えそのものに興味があります。
なぜならわたしたちは、「哲学か信仰か」「理論か実践か」という二つの箱を先に用意し、そのどちらかにブッダを入れようとしているからです。
けれども、その分け方自体が、本当にブッダの時代からあったのでしょうか。
僧侶時代の違和感
わたしは長く僧侶として過ごしました。その中で感じたことがあります。
現代においてブッダは、「仏教の開祖」「宗教家」というカテゴリーの中で語られることがほとんどです。もちろん、それは歴史的には自然なことかもしれません。
しかし、そのカテゴリーの中に置かれた瞬間、ブッダの思想は「教え」となり、教えは信じるものとなり、やがて信仰と結びついていきます。そこでは思想と信仰を切り離すことが難しくなります。
他方で、「宗教」という枠は中立ではありません。まずカテゴリー分けは読み方の指示書を伴います。「宗教」という棚に置かれた瞬間、テキストは聖典になり、聖典を手に取るものは「信をもって受け取れ、検証するな」という構えを暗に命じられのです。
これはカーラーマ経やヴィーマンサカ経が、読者に求めていることの正反対です。「宗教」という枠と初期経典の中身のあいだには遂行的な矛盾があります。
経験的に言えば、わたしが出家した寺院においても、教義とブッダの思想は一体化し、その思想は信仰の先にありました。わたし自身も、長い間その構造の中にいました。
けれども、あるときから疑問を抱くようになりました。人の苦しみは、信仰の世界で起きているのでしょうか。怒りも、不安も、嫉妬も、執着も、老いへの戸惑いも、家族との葛藤も、日々の生活の中で起きています。
それならば、それらに向き合うための思想もまた、日常の中で働くものでなければならないのではないか。わたしはそう考えるようになったのです。
ブッダの思想は哲学か?
だからといって、ブッダを単なる哲学者にしたいわけではありません。
「宗教の鎖を取り払って哲学として問い直す」とき、「哲学」もまた中立な棚ではない、ということです。哲学の枠に移せば、それはそれで固有の要求が発生してきます。
論証であれ、分析に服せ、理由の市場で他と競え、と。そして初期経典が最も強く言うのは、決定的なものは理解されるのではなく実現される(ñāṇadassana)、地図を知ることと道を歩くことは違う、という点でした。
「宗教」の枠が思想を過剰に聖域化するのなら、「哲学」の枠は思想を過剰に知性化する危険を持ってしまいます。
むしろわたしが試みたいのは、宗教という箱からも、哲学という箱からも、一度ブッダを外に出すことです。その二つの箱そのものが後世の地図だと示したいのです。
「宗教か哲学か」「信か理性か」「理論か生き方か」——これらの二項は、近代の学問区分が引いた線です。そもそも「宗教(religion)」という概念じたいが近代の産物で、日本語の「宗教」も十九世紀の翻訳語に過ぎません。
その理解の上で、あらためて人間の苦しみを考察した思想として読み直してみたいのです。
たとえば、家族との関係で苦しんでいる人がいるとします。
「親ならこうあるべきだ」
「子どもならこうあるべきだ」
「夫婦とはこういうものだ」
そうした思いが強くなるほど、人は苦しくなります。ここで必要なのは、教義でしょうか。あるいは、何かを信じることでしょうか。わたしはそうは思いません。
まず必要なのは、自分が何を期待しているのかを見ることです。何を当然だと思っているのか。何に失望しているのか。どのような理想像を相手に重ねているのか。ただ見てみることです。
その観察を突き詰めていくと、自然とわたしたちは少しずつ何かしらそこに苦しみの構造があることに気づいていきます。そして興味深いことに、最初期の仏典に描かれているブッダの姿もまた、そのようなものでした。
そこでは、世界の起源について論じることよりも、自分のこころに起きていることを見ることが重視されています。何を信じるかよりも、何が起きているかを見ること。何を崇めるかよりも、どのように苦しみが生まれるかを見ること。そこに関心が向けられていました。
わたしは記事の中で、ブッダの思想を現代の言葉で問い直したいと思っています。それは仏教を広めるためではありません。ましてや、新しい信仰を勧めるためでもありません。現代人が抱える苦しみを見つめ直すための言葉を探したいのです。哲学や言語論を取り上げるのもそのためです。
家族について書くのも、SNSについて書くのも、市場経済について書くのも、老いについて書くのも、そのためです。それらはすべて、人が苦しみを生み出す構造を見つめるための入口にすぎません。
おわりに
理論か生き方か。哲学か信仰か。わたしたちはつい、そのどちらかを選ぼうとします。これは、これまでの教育が培ってきたわたしたちの癖です。
しかし最古層の仏典を読むと、その分岐そのものが見当たりません。正しく見ることと、正しく生きることは分かれていなかった。だから正見1は、単なる理論ではなく道の一部だったのでしょう。
見ることと生きることが、一つの営みだったのです。わたしはブッダを哲学者として祭り上げたいわけでも、宗教家として崇めたいわけでもありません。
ただ、その思想を現代の言葉に翻訳したいと思っています。その翻訳家たることだけがわたしの願いです。もし日々の苦しみがわたしたちの日常にあるのなら、その思想もまた日常の中で働くものでなければならないと思っています。
そして、その入口にあるのは、信じることではなく、まず見ることなのだと。
- 仏教における悟りを開くための修行のこと。ありのままに観ること。 ↩︎

