はじめに
この記事は、以前記事にした『無我-muga』がら独立させました。というのも、『無我-muga』を改めて読み返してみると、冗長に感じられて無我の主旨が散漫になっていると思ったからです。

また、独立させることに伴って加筆、修正しています。
わたしの見解
このブログでは、わたしに注目しています。それは、この世界がわたしから広がり、わたしに繋がる人々やモノを通じて人生を起ちあげて行くためです。
といって、すべての人が人生を起ち上げているわけではありません。多くの人々にとって、人生は選択と受容の繰り返しです。すると、そこでは運命論が広がっていきます。

お釈迦さまが言われた「塔を起てる」ということは、人生を起ちあげて行くことの意を含んでいます。人生は起ちあげて行くことで楽に生きることができます。そのためには、日常生活の中のわたしと外界との接点が重要なカギとなります。ここで、わたしというテーマに行き着くのです。
これまで、このブログでは、改めてわたしについて考えてみる試みから、我=「わたし」という表現方法を取っていました。今回( )付きにしたのは、無我における「わたし」と、今回取り上げている(わたし)とは、根本的に違っているためです。
すこし分かりづらい表現かもしれませんが、わたしと外界との接点に推奨される形があるとして、それが「わたし」であるとするならば、それとは違った一般的なわたしに対する考え方が(わたし)であると思っていただければ幸いです。
「わたし」:お釈迦さまの思想に基づいた -わたし-
(わたし):一般的な -わたし- の概念
なお、特定の宗教観に基づいた特異な(わたし)については除外しています。あくまで一般論としてお考え下さい。この記事に限らず当ブログでは、お釈迦さまの思想は宗教思想ではないことをお断りしております。
それでは、具体的に(わたし)とはどういう状態を指しているのか考察してみたいと思います。
慣れ親しんだ(わたし)
(わたし)の認識
この世は一度切りというのが常識です。この概念は、命を終えると脳内の活動のひとつである(わたし)は消滅し、その後は何もないし何も残らないというものです。
とても分かり易く、現段階の科学の範疇においては一番理に適っています。民族・宗教を超えて、世界的に多くの人々がこの死生観を持って生きていると思われます。

ここで危惧されることは、一度きりで後腐れのない世界ならば、やりたい放題になってしまうのではないかということです。そのため、奪い合い、殺し合いにならない世界を担保するために、人間同士の安全を保障しようと法治制度が敷かれています。
簡単に言えば、「自分が危害を被りたくなかったら、他人へ危害を加えない。自由をはく奪される可能性もあるから、互いの尊厳を保って社会を維持していきましょう」という社会哲学です。
一方で、誰しも個人の尊厳を尊重しているわけではなく、大衆の倫理観など脆いものです。捕まらなければ正義とばかりに、犯罪は後を絶たず、犯罪には至らないまでも、誹謗中傷、ハラスメント、果ては犯罪をも超越した戦争まで、目を覆う現実です。
それでも、銃砲等で自分の身を守らないでよいだけ、日本はまだマシな方なのかもしれません。
(わたし)への執著懸念
死ねば無に帰する(わたし)に対する懸念は、(わたし)に依存してしまう傾向にあることです。
誰しも(わたし)はかわいいものです。一度きりの人生、何でも経験したいし手に入れたいと思うのが人情というもの。また、何らかの形で、自分の痕跡をこの世に残したいと思う人もいることでしょう。
そこで、自分の遺伝的な分身として子孫を残す方法が、最も一般的で分かり易い生きた証です。しかし、なかなか人生思い通りにはならないものです。子供を巡るいろいろな葛藤もまた、人の悩みのひとつとして定着しています。
ところで、死んで無に帰するとするならば、何かを残したいと欲する理由とは一体何なんでしょう。痕跡を残そうとする当の本人は、必ずこの世から消滅してしまうのです。

分身と言えば、一時クローン技術が話題になりました。極論の仮定にはなりますが、自分のDNAからクローンが作り出される技術が確立されたとしても、創り出された複製人間に恐らく(わたし)はいないでしょう。そこには、自分ととても酷似した別人がいるだけと思われます。これでは、子孫とあまり変わりがありません。

何かを残したいと試行錯誤する人々のから見え透いてくるのは、結局のところ(わたし)への執著です。一度きりの人生の(わたし)が、悪いことばかりでもありません。精一杯生きようという覚悟もできるというものです。
次に、この(わたし)の概念が、主に宗教と結びついて出来たと思われる魂なるものについての考察です。
(わたし)と魂
魂が人という乗り物を乗り換えながら、時代を渡っていくという考え方があります。一部の土着的な民族伝承や仏教宗派に見られる死生観であり、一般的にも何となく知られている概念です。

しかし、これはある種のファンタジーだとわたしは思っています。魂という言葉は、一般的に浸透し、日常いろいろな場面で使われてはいますが、実際に時代を渡るような(わたし)を含有する魂というものは存在しません。これはお釈迦さまも明言されています。
これまで、わたしも亡くなった人々と何度かコンタクトしてきました。わたしは次第に、コンタクトしている対象が魂とは思わないようになりました(ちなみに、わたしが出家した寺院の方々は魂としています)。
ケースにも拠りますが、肉体を失ってもしばらくは、我の情報の一部を包有した何かがあるように感じます。しかし、その何かとは、いつしか「我の名残りであり残像だ」と感じるようになってきたのです。恒久的な魂のようなものだとはとても思えなくなりました。
余談ですが、両方を統合したハイブリッドな考えを持っている方もいます。すなわち、時代を超え渡りながら、今世においても自分の足跡を残したいと、いささか欲張りな人々です。高い身分を得た聖職者が抱きそうな価値観ですね。
魂が転生していく死生観とは、言い換えれば先で述べた一度きりの(わたし)に恒久的な時間を付加した概念です。魂の中の(わたし)への執著は、死して無に帰する(わたし)よりも、さらに大きくなってしまいそうです。
魂の概念とて悪いことばかりでもありません。一度きりの人生よりもチャンスが膨らんだと思う分、生き甲斐も増えるかもしれません。
隠された「わたし」
お釈迦さまの概念のひとつに以下のようなものがあります。
今世は来世に関係していて、今世における行いは次の世に及ぶ
これは以前『無我-muga』の記事の中で考察した「わたし」から派生した概念です。他方で、以前の記事において、「過去生を知らないことは、人々を混乱させないための優れたシステムだ」とも言いました。
この過去生の認識と合わせて、このような因縁の仕組みから構築された世界観を持った人々はほとんどいません。
この世では、悪想念を抱えながら宿題を持って生まれた人々、善知識をもともと備えながら生まれてくる人々など、生まれ持った素質は様々です。それらすべての人々が、お釈迦さまの思想をすんなり受け入れられるものでもありません。
「わたし」が覆い隠され、必要な時に開示される仕組みは、この世における適切な工夫だとわたしは理解しています。
まとめ
この世限りである(わたし)の思い方と、魂があると信じる(わたし)の思い方とは、共に良いところはありますが、共通して言えることは、(わたし)に執著しやすい点が気がかりと言えます。
恵まれた人生を得たのであれば猶更、特別な(わたし)、選ばれた(わたし)と勘違いしてしまい、執著はさらに大きくなってしまいます。クローン技術にまで(わたし)を継続させる可能性を見出したくもなることでしょう。
今回は、一般的に考えられている(わたし)の概念について挙げてきましたが、どんな観念を持っていたとしても、最終的には個人の裁量に帰結します。どちらの概念を信条として生きている人でも、立派に生きている方はたくさんいらっしゃいます。
今回の記事では、「現在のあなたが見ているわたしをドウコウして」と言っているのではありません。実は、あなたのわたしが「わたし」であろうと(わたし)であろうと、そこに思い込みさえなければ大した問題ではないのです。
筆者であるわたしは、過去生において、お釈迦さまより「因縁」について軽視していると指導されていました。当時?は、この意味が解りませんでした。
それから2600年ほど経ちました。聖者への意識が芽生えると、(わたし)の意識から「わたし」の意識への転換が起こります。すると、社会の仕組みとして因縁が現出し見えてきます。因縁がこの世の要(かなめ)だと認識されてくるのです。
この世のキーポイントが因縁であることが自明となり、わたしへの認知が(わたし)から「わたし」へと変化した時、あなたも晴れて聖者の仲間入りを果たしたというわけです。