はじめに——二つの場面から考える
「思考停止」という言葉を、わたしたちは日常的に口にします。
しかし、そこで何が停止しているのかと改めて問われると、案外答えにくいものです。考えるのをやめてしまった状態、と言ってしまえばそれまでですが、よく観察してみると、実際には考えが止まっているのではなく、むしろ勝手に動き続けているように見える場面が多くあります。
この記事は、久しぶりに長くなりましたので、二部構成で書きました。
第一回目(この記事)では、朝スマートフォンを手に取る——そんなありふれた場面を題材に、わたしたちの内側で何が起きているかを、できるだけ細かく見ていきます。あくまで、現象の記述としてです。
続く第二回では、同じ構造が個人の内側を越えて、社会の風景にまで広がっていく様子を見ていきます。SNSでの対立、言葉の争い、炎上といった現象が、じつは一人の内側で起きていることと、同じ構造の異なる規模の現れであることを明らかにしてみます。
両方を通して、二千数百年前に書かれたひとつのテキスト——初期仏典の『蜜丸経(みつがんきょう)』——が、この連鎖を驚くほど精確に見通していたことを、あわせて紹介していきたいと思います。
結論を先取りしたくはないので、まずは誰でも日常よくありそうな朝の場面を想像しながら書いてみます。
朝の一場面
朝、目が覚めて、まだ布団の中で手を伸ばし、スマートフォンを取る。
何かを調べるつもりだったのか、時刻を確かめたかっただけなのか、はっきりしません。画面が明るくなり、通知がいくつか並んでいて、そのうちのひとつを開きます。
そこから短い動画に移り、気づけば別の動画を何本も見ている。五分のつもりが、三十分、あっという間に一時間が経ってしまった。
この場面を、怠惰と呼ぶには正確ではありません。依存と呼ぶにはあまりに強すぎる気もします。自分で選んでいるつもりなのに、選ばされているようでもある。
では、これは何なのでしょうか。
さらに、分解してみる
よく観察してみると、画面を開く前の一瞬、すでに手が動いています。
「取ろう」と決めた記憶がないまま、指がそちらに向かっている。動画から動画へ移るときも、「これを見たい」という明確な意志があったわけではありません。見終わったあとに何を見ていたかを思い出そうとしても、輪郭は曖昧で、断片しか残っていない。
最初の数十秒を、もう少しゆっくり分解してみます。
画面が点灯する。最初の映像が流れる。そのとき、こころのなかで何かが起きています。考えるより先に、軽い「おもしろそうだ」の感触が生まれている。
次を求める気持ちが、ほとんど同時に立ち上がっている。「面白いかどうか判断してから次へ進もう」という段取りは、実は踏まえていません。
感触が先に来て、判断はそのあとについてくる、あるいはついてこないまま次へ流れていきます。
条件が行動を呼び出す
こうした行動のほとんどは、意識的に決めているわけではない、ということが知られています。実は、思っている以上に有名な「人の行動」で心理学的にも分析されています。
ある場所、ある時間、ある姿勢といった条件が揃うと、ほとんど自動的に、手がスマートフォンに向かう。
本人が「取ろう」と決める前に、すでに動き始めている。この自動化は、繰り返しによって、見えない筋道として身体に刻まれていきます。
寝起きの布団のなか、電車を待つホーム、信号待ちの交差点、仕事の合間のひと息——身の置き所によって、場所が行動を呼び出す力を持つようになる。このような経験は、自身を含めて、日常どこでも見かける状況です。
意志より早いもの
そしてもうひとつ。通知音、動画の最初の数秒、短いテキストの断片。
これらは、わたしたちがそれを見ようと決める前に、すでに注意を引き寄せてしまう力を持っています。集中しているときでさえ、ふと視線が奪われる。奪われたあとで「見よう」と決めたように感じるだけで、実際にはー引き寄せられたーほうが先です。
意志は、動き始めた流れを後から追認しているだけ、ということが少なくありません。
こうして見てみると、わたしたちの多くの行動は、自分で選んでいるのではなく、条件の整いかたと、注意の奪われかたによって、すでに始まっているようです。
では、このことをどう受けとめればよいのでしょうか。「意志の力を取り戻そう」という方向に話が進みそうですが、ほんとうにそうなのでしょうか。
二千数百年前のテキストから
ここで、ずいぶん古いテキストをひとつ紹介したいと思います。
『蜜丸経』という、初期の仏典です。そこには、わたしたちの経験のなかで起きていることが、おどろくほど細かく描かれています。
眼と、ものの形とによって、見ることが生じる。 その三つが合わさるところを、触れるという。 触れるところから、感受が生まれる。 感じたところを、思い浮かべる。 思い浮かべたところを、考える。 考えたところから、妄想(戯論(けろん)/パパンチャ(papañca))が広がっていく。
短い一節ですが、先ほどまで描いてきた朝の場面と、驚くほど重なります。
画面を見る、そのほとんど同時に軽い感触が生まれる、次を求める気持ちが立ち上がる、「これは面白い」「もう一本見よう」という考えになる、
そして考えは勝手に膨らみはじめてしまいます。この流れは、わたしたちの一日のあちこちで、数えきれないほど繰り返されているのです。
停止しているのは、何か
注目したいのは、この連鎖が自動的に進んでいくということです。
どこかで止めようと思えば止められるはずですが、実際にはほとんどの場合、止まらずに最後まで流れていく。流れていったあとで、「また時間を使ってしまった」と気づく。気づいたときには、もう連鎖は一巡しています。
思考停止というと、考えることをやめてしまった状態、と感じられるかもしれません。しかし、ここで起きているのは、考えなくなっているのではありません。むしろ、考えが勝手に起き続けているのです。
感触から判断へ、判断から思考へ、思考から物語へと、絶え間なく流れが続いている。ただ、その始まりに気づいていないだけなのです。
停止しているのは、考えることそのものではなく、考えがどこから始まっているかへの気づきのほうなのかもしれません。
この一人の朝の場面で見た構造は、じつは個人の内側に留まりません。同じ連鎖が、社会の風景のなかで、何千、何万という規模で起きています。
続く第二部では、『蜜丸経』のもうひとつの一節を手がかりに、そのことを見ていきたいと思います。

