はじめに
人にとって、幸せとは一体何でしょう。長い文明の歴史で、問い続けられる永遠のテーマのひとつです。
人は幸せを考えるとき思い浮かべます。それは、例えば、気が置けない友達と過ごす時間だったり、夫や妻、子供と歓談するときだったり、孫と一緒に過ごす時間だったり、何らかの仕事をやり遂げた時であったり、出世して給料が挙がったときだったり、承認欲求を満たされたときだったり、人によって幸せを感じる場面はたくさんあることでしょう。
これらは、組織や周りに人が集まって成り立つ相対的な幸せとも思われますが、ただひとり健康な毎日を過ごすことが幸せと思ってる健気な方もいらっしゃるかもしれません。
このように幸せと思うことは多種多様、価値観が多くなった現代では無限にあるのかもしれません。
今回は、そんな人にとっての幸せについて考えてみました。
運命と幸せ
野球観戦
昭和の時代、スポーツと言えば野球と相撲でした。今ではスポーツ自体ほとんど見なくなりましたが、若かりし頃は、亡父が野球好きで、一緒にプロ野球中継を見たり、球場に足を運んだりもしていました。
野球中継をよく観る方はご存じだと思いますが、野球には「流れ」という面白い現象があります。この「流れ」に乗ってプレイをすると点が入ったり、流れが止まるとチャンスでも打てなくなったりするのです。
個人の実力では計れない試合全体で醸し出すこの「流れ」によって、勝利を左右することが多々あります。

この未知なる「流れ」を運命のように感じ、自分の人生とも重ね合わせながら、野球は筋書きのないドラマなどと、野球にスポーツ以上の面白みを感じるのも醍醐味です。
「流れ」には、良い流れもあれば悪い流れもあります。良い流れに乗ると優勝も見えてきたり、反対に悪い流れに乗ってしまうと試合のバランスは崩れて、はめちゃめちゃになってしまいます。
野球における「流れ」というのは、人生ではなかなか体験できません。日常では毎日のルーティン作業をこなすので精一杯という方が多いことでしょう。
野球に限らずサッカーやゴルフ、卓球に陸上等に至るまで、スポーツには、日常にはない、人があたかも神の視点に立って俯瞰して見ているような、まるで運命が目の前で繰り広げられているような錯覚を体験できるのも魅力のひとつなのかもしれません。
運命の正体
人生にも、良い流れ、悪い流れを感じて生活している人がたくさんいます。サラリーマン時代、同僚たちが、「昨日はついていなかった、今日はついている」等、毎日のように「つき」の良し悪しを漏らしていました。
社交辞令も混じっているでしょうが、同僚たちにとって、無意識的に毎日の生活には「つき=運命」が重要だと考えていたんですね。わたしの場合、出家はまだ遠い先の話しだったのですが、この「つき」という考え方に、なぜか釈然としない違和感を感じていました。
世間の中には、良運に恵まれないと幸せにはなれないと思い込んでいる人々がたくさんいらっしゃいます。悪い流れに合ってしまうと、野球の試合が壊れていくように、人生もまた沈んでいってしまうと思ってしまうのです。そうして、人生を経験し、年を経るにつれて、運命は「神のみぞ知る」ことであり、人には手出し無用と思い込んでしまう傾向にあります。

この運命を、何らかの超自然現象のように受け取らずに、コントロールできるとすればどうでしょう。人生に対する思い方・見え方が変わるのではないでしょうか。
この運命の捉え方ひとつで、人の幸せへの考え方が劇的に変化していきます。
まとめ
友達と過ごす瞬間、出世した瞬間、孫や子と歓談する瞬間、その瞬間瞬間で幸せを感じられれば十分だと、人は言うかもしれません。
一方で、友人や子や孫が去り、あるいはいなくなってしまったら、その幸せの形はどうなってしまうでしょう。
一般的に幸せを感じることすべては、一時的なもので、いわゆる「幸せ」ではなく有頂天に過ぎません。今世の人生にも輪廻があります。その一部である有頂天があれば、対照的に地獄も待ち受けているものです。
こころの力を養えば、運命と呼んでいることでさえも、コントロールできるようになっていきます。わたしは、幸せとは、外界に左右されずに、常にこころが平穏であり続けることだと思っています。
幸せとは外界に左右されずに、常に平穏を感じ続けられること
さて、野球における試合の「流れ」ですが、何でも野球には野球の神様なるものがいらっしゃるようです。神様も野球を楽しんでいるのかもしれませんね。