前二回の記事「思考停止」から
これまで二回にわたって、わたしたちの内側で起きている連鎖について書いてきました。

朝、スマートフォンを手に取る場面から始めて、触れる・感じる・思い浮かべる・考える・妄想が広がる、という初期仏典『蜜丸経』の一節を紹介しました。次に、その連鎖が個人の内面に留まらず、SNSでの対立や社会的な論争にまで広がっていくことを見ました。
二千数百年前のテキストが描いた連鎖の機序が、現代の風景にも驚くほど当てはまる——そのことを、できるだけ順序立てて観察してきたつもりです。
今回は、そこからもう一歩進みたいと思います。
前二回を書きながら、ずっと引っかかっていたことがあります。それは、この連鎖がなぜこれほど頻繁に、これほど強く起きるのかという問いです。わたしたち個人の注意力が弱いから、という説明では足りない気がします。
朝の布団のなかで、電車のホームで、仕事の合間に、夜寝る前に——これほど同じ連鎖が反復的に起動される理由が、わたしたち個人の側だけにあるとは思えません。
何か別の要因があるのではないか。今回はそのことを考えてみたいと思います。
「注意」が商品になる経済
現代の情報環境の多くは、利用者に何かを買わせることで成り立っているわけではありません。動画プラットフォームから、SNSにある短文、ニュースアプリまで、ほとんどのネット上の情報は基本的に無料で提供されています。
では、どうやって成り立っているのでしょうか。
答えは、利用者の「注意時間」そのものが、収益の源泉になっているからです。
利用者が画面の前にいる時間、スクロールしている時間、動画を見ている時間——その時間が長ければ長いほど、広告を表示する機会が増え、行動のデータが蓄積され、それが収益に変換されていきます。ここでは、利用者は顧客ではありません。利用者の注意が、商品として売買されているのです。
この構造は、当然、ひとつの設計思想を生みます。
- 利用者の注意を、できるだけ長くつなぎ止めること
- 離れかけた注意を、できるだけ素早く引き戻すこと
- 新しい利用者を、できるだけ早く習慣化させること
これらが、情報環境を設計する側にとっての中心的な課題になります。
わたしたちが日々使っている多くのサービスは、この課題を解くために、極めて洗練された形で設計されています。
- 画面の下端まで見ても次のコンテンツが自動で読み込まれる仕組み
- 通知の振動と音のタイミング
- 動画が次々と自動再生される流れ
- 過去の視聴履歴から好みを推測して次を提示するおすすめ機能
これらはいずれも、注意をつなぎ止め、離させないための工夫として、丹念に作り込まれています。
昨今では、テレビ放送においてもCMと番組、または番組と番組との境目を出来るだけシームレスにするような、ネット上で見られる同じような工夫がなされているようです。これらも、テレビに出来るだけ注意を向けさせ、CMを長く見させるためです。
連鎖が、設計されている
ここで、前二回で見てきた連鎖の話に戻ります。
触れる・感じる・思い浮かべる・考える・妄想が広がる——この連鎖は、わたしたちの経験のなかで自然に起きていることでした。しかし現代の情報環境においては、この連鎖が意図的に起動されるように仕組まれているという側面があります。
動画のサムネイルは、見た瞬間に軽い興味や好奇心を引き起こすように設計されています。これは「触れる」から「感じる」への移行を、できるだけ強く、できるだけ素早く起こすためです。
通知の振動は、考える前に身体を反応させる。短い効果音は、判断を経由せずに注意を向けさせます。色彩の配置、文字の大きさ、並び順——これらはすべて、感受の段階で反応を引き出すように調整されています。
判断を挟まずに感じさせる、感じたらすぐ次を求めるように仕向ける、求めた先でまた感じさせる——この循環が、情報環境の設計の中核にあります。
興味深いのは、この設計の精緻さが、人間の経験の微細な構造についての深い理解に基づいている、ということです。どの段階で介入すれば注意を最も効果的に引き出せるか、どの段階で次の刺激を提示すれば離脱を防げるか。これらは膨大な実験と観察の蓄積のうえに最適化されています。
二千数百年前のテキストが読み解いた連鎖の仕組みが、現代において工学的に応用されている——そんな風に言うことさえできるでしょう。
求め続けることが、組み込まれる
ここで、もうひとつの初期仏典を参照したいと思います。『大縁経』という、縁起の連鎖を詳しく論じたテキストです。
『蜜丸経』が「触れる」から「妄想」への連鎖を描いたのに対し、『大縁経』はその先を描きます。感じることから、絶えず求め続ける気持ちが生まれ、それがさらに広がって、社会的な争いにまで至る——そのプロセスを、次のように記述しています。
感受するところから、求める気持ちが生まれる。 求める気持ちから、探し求めることが生まれる。 探し求めることから、得ることが生まれる。 得ることから、判断し区別することが生まれる。 判断と区別から、執着が生まれる。 執着から、所有することが生まれる。 所有することから、守ろうとする気持ちが生まれる。 守ろうとする気持ちから、棒を取り、武器を取り、 論争が、言葉の争いが、偽りが、欺きが生まれる。
感受から始まる一本の線が、求める気持ちを経て、所有とそれを保持するにまで至り、最後には争いに行き着く——この連鎖の記述は、驚くほど経済的・社会的な色合いを帯びています。単なる内面の分析ではなく、人間が経済的・社会的に行動するときに辿る経路そのものを描いているように読めます。
ここで「求める気持ち」と訳した言葉を、仏典では渇愛(たんあい)と呼びます。渇いた者が水を求めるように、絶えず何かを求め続ける、その止むことのない動きのことです。
現代の情報環境は、この渇愛の機序を——意図したかどうかはさておき——極めて効率的に組織化しています。
- スクロールしても終わりが来ない設計は、「まだ何かあるかもしれない」という求める気持ちを持続させます。
- 「いいね」や再生数の表示は、他者との比較を通じて、さらに欲しい、もっと欲しいという動きを強めます。
- 通知による断続的な刺激は、次の刺激を期待して待つ状態を、常時作り出します。
- おすすめアルゴリズムは、過去の求める動きから次の求める対象を予測し、それを絶え間なく供給し続けます。
満たされること、落ち着くこと、静止することは、この設計のなかでは避けるべき状態です。なぜなら、満たされた利用者は、画面から離れてしまうからです。
求め続けること、比較し続けること、反応し続けることが、構造の側から常時誘発され続けている——それが、現代の情報環境の基本的な姿なのだと思います。
ベルトコンベアの上で
ここまで見てきたことを、ひとつの比喩でまとめることができます。
現代の情報環境は、これまでわたしが情報社会で例えてきたように一種のベルトコンベアのようなものだ、ということです。ベルトコンベアとは、エンドレスにモノを効率的に運ぶ機会です。
人が情報社会というベルトコンベアに乗っているばかりでなく、人の内面まで同じ仕組みに捉えられているということです。
わたしたちは自分の意志で画面を開き、自分の意志でコンテンツを選び、自分の意志でスクロールしている、と感じています。実際、開くかどうか、何を見るかは、ある程度は自分で選んでいます。
しかし、ベルトそのものの動き——連鎖を起動させる設計、注意をつなぎ止める仕組み、求め続けさせる構造——は、わたしたちの選択の範囲の外にあります。
選んでいるのは、ベルトの上のどの地点にいるかだけで、ベルトそのものの方向と速度は選べない。そして、ベルトの終点には、何らかの消費や反応が待っている。注意を投じること、データを残すこと、広告を見ること、次のサービスを使い始めること——これらはすべて、市場経済のなかでの出力として回収されていきます。
ここで誤解を避けたいのは、誰か悪意ある個人や組織が、利用者を操っている、という話ではないということです。そうではなく、市場の論理が行き着いた先に、自然に生まれた構造なのだと思います。
注意時間が収益になる経済のなかで、それぞれの事業者が合理的に最適化を進めていくと、必然的にこのような設計に収斂していく。誰が悪いという話ではなく、構造がそのような形になっている、という話です。
しかし、誰が悪いわけでもないとしても、帰結としてわたしたちは、絶えず連鎖を起動させられ、絶えず求める気持ちを喚起され、絶えず反応させ続けられています。個人の意志の強さの問題というより、わたしたちが置かれている環境そのものが、そのように設計されている——このことは、冷静に見ておいてよくべきでしょう。
仏典から見るとき
この構造を、仏典の視点から見ると、どう見えるでしょうか。
まず言っておきたいのは、「だから情報技術は悪だ」という結論には進まない、ということです。情報技術そのものは、人間の拡張として多くの恩恵をもたらしてきました。問題は技術そのものではなく、技術が注意経済という経済形態のなかに埋め込まれたときに生まれる構造のほうにあります。
仏典の視点から言えることは、この構造が、人間の苦しみの機序——渇愛が絶えず喚起され、反応が自動化し、比較と獲得と所有の連鎖が止まらない——を、社会のレベルで組織化している、ということです。
個人が自分の内側で起きている連鎖に気づくことさえ難しいのに、その連鎖を常時起動させる環境のなかに置かれている。これは、気づきをもって生きることが、構造的に困難な環境だと言えます。
では、どうすればよいのでしょうか。
前二回で述べたことを、ここで繰り返したいと思います。気づきとは、流れを止めることではなく、その始まりに立ち会うことです。ベルトコンベアを止めることは、わたしたち個人にはできません。しかし、自分が今ベルトの上にいることを、注意深く意識していること。それは可能です。
画面を開くとき、そこで何が起きているかを見失わない。軽い感触が生まれたこと、次を求める気持ちが立ち上がったこと、それが考えや物語になっていくこと。それらが、環境の側から意図的に起動されているかもしれないこと。これらを、押しとどめるのでも、正しく導くのでもなく、ただ見失わない。
これは無力な諦観ではありません。構造のなかでの主体性の、最小にして最も根本的な形だと思います。
構造を変えられなくても、構造のなかで自分が何をしているかを見失わなければ、反応の仕方は少しずつ変わっていきます。そして、多くの人が少しずつ変わっていけば、長い時間をかけて、構造そのものにもどこかで変化が現れてくる時期がくると希望を持つことです。
おわりに
前二回の記事で、一人の朝の場面から社会の風景にまで射程を広げてきた議論が、今回は社会を作っている構造そのものにまで開示してみました。
この記事では、「この構造を何とかしよう!」告発することが目的ではありません。もっとも多くの人々が、この構造に多かれ少なかれ気が付いているかと思われます。
また、告発することで、告発する側もまた別の連鎖——怒りから非難への連鎖——を起動させてしまう。それもまた、気づきを失った状態のひとつの現れです。
そうではなく、構造をただ見ること。冷静に観察できる自分を持ち続けて行くことです。
そのなかで自分が何をしているかを見失わないこと。ベルトコンベアの上にいることを、ベルトごと抱え込んで正当化するのでもなく、全否定して降りようとするのでもなく、ただ、乗っていることを知っている。
そのささやかな態度が、二千数百年前のテキストが示した連鎖のなかで、今もわたしたちにできる、ほとんど唯一の根本的なことなのではないかと、わたしは感じています。


