はじめに
前回、宮澤賢治の『春と修羅』序を、現象学と初期仏典という二つの眼差しから読み解いてみました。書き進めながら気づいてきたのは、「わたし」への洞察を中心に据えてみると、二つの読み筋が同じ場所を照らし出している、と感じる瞬間があったことです。

「わたし」については、このブログにおいて重要な事象です。これまでも記事を残してきました。


フッサールと初期仏典の「わたし」への洞察。これは偶然なのだろうか。それとも、現象学と初期仏典は、もっと根本的なところで同じ現象を見つめているのだろうか——そんな問いが、書き終えた後もしばらく残り続けました。
今回は、わたしのワイフワークの一環として、現象学を切り開いた知の巨人と初期仏典にさらに少しだけ踏み込んでみたいと思います。難しい話にはしません。むしろ、メロディを聴くという、誰もが知っている経験から始めてみたいと思います。
メロディが流れている、ということ
目を閉じて、好きな曲のことを思い浮かべてみてください。あるいは実際に、何か音楽を流してみると分かり易いでしょう。
ふと気づくのですが、わたしたちが「メロディを聴いている」とき、そこで起きていることは、よくよく考えると不思議な体験です。
いま、ある音が鳴っている。次の瞬間には別の音が鳴る。さらに次の瞬間には、また別の音。物理的には、音は次々と「鳴っては消える」を繰り返しているだけです。一つひとつの音は、ほんの一瞬で過ぎ去っていっています。
それなのに、わたしたちには「メロディが流れている」と聴こえています。
もしも本当に「いま」がほんの一点の瞬間でしかないのなら、メロディなど聴こえようがありません。聴こえるのは、いまこの瞬間に鳴っている音ただ一つだけ、ということになるはずです。
けれど実際には、たった今鳴り終わった音が、まだどこかに「残っている」感じがする。だからこそ、いま鳴っている音と、さっき鳴った音とが繋がって、「メロディ」として聴こえる。
ということは——「いま」には、点ではなく、ある種の厚みがあるのではないか。
フッサールが見つめた「いま」
二十世紀の初め、ドイツの哲学者エトムント・フッサールは、まさにこの「いま」の構造をひたすら見つめ続けた人でした。
彼が用意した概念のひとつに、「把持(はじ、Retention)」というものがあります。
たった今鳴り終わった音が、まだ意識のなかに「保たれている」感じ。完全に消え去ったわけではなく、けれど「いま鳴っている」のでもない。すでに過ぎ去ったものでありながら、なおも「いま」のすぐ縁に張りついている——そういう独特のあり方を、フッサールは「把持」と呼びました。
ここで大事なのは、把持は「思い出すこと」とは違う、ということです。三十分前に聴いた曲のフレーズを思い起こすのは、記憶の働きです。けれど把持は、そういう能動的な振り返りではありません。何もしなくても、ただメロディを聴いているだけで、過ぎ去ったばかりの音は自動的に「いま」の縁に保たれる。それは意識の構造そのものに組み込まれた働きなのです。
そしてフッサールはもう一つ、「予持(よじ、Protention)」という対の概念も用意しました。これから来るであろう次の音を、わたしたちは何となく「先取り」して待ち構えている。だから次の音がメロディとして自然に繋がって聴こえる。
過ぎ去ったものへの把持。来るべきものへの予持。そして、いま鳴っているもの。この三つが重なり合って、わたしたちの「いま」は厚みを持つ——フッサールはそう描き出しました。
「いま」とは、点ではない。それは、過ぎ去りつつあるものとこれから来るものとが、わずかに重なり合って成立する、流れる現象なのです。
二千五百年前にも、似た眼差しがあった
ここで、ぐっと時代を遡ってみたいと思います。
紀元前五世紀ごろ、北インドで説かれたとされる初期仏教の経典——パーリ語で残された『サンユッタ・ニカーヤ』という古い文献群のなかに、こんな一節があります。
心と意と識は、昼も夜も、絶え間なく生じては滅し、生じては滅していく。 ちょうど、森のなかで猿が枝から枝へ飛び移っていくように。 (『無聞経』Assutavā-sutta より、趣意)
インドと猿と結びつかない方もいらっしゃると思いますが、今でもインド北部では少し郊外にいけば猿をたくさん見かけることができます。紀元前のインドでもそんな猿たちの行動を比喩として使ったのでしょう。
猿が枝から枝へ飛び移っていく——この比喩が指しているのは、わたしたちのこころの働きが、決して一つところに固定されていない、ということです。一瞬ごとに、こころは別の対象を掴み、別の対象へと移っていく。同じ「こころ」がそこに留まっているように見えても、実際には絶え間なく生じ滅しを繰り返している。
これはまさに、「いま」の中身が一瞬ごとに入れ替わっている、という観察です。
仏教ではこれを「無常(anicca、アニッチャ)」と呼びます。あらゆるものは変化してやまない、留まるものは何もない、という洞察です。
無常という言葉は、しばしば「いつかは失われる」「人生ははかない」といった、どこか感傷的なニュアンスで受け取られがちです。けれど初期仏典が見つめている無常は、もっと即物的な——いまこの瞬間に起きている事実としての——絶え間ない生滅の構造です。
メロディの音が次々と生じては消えていくように、わたしたちのこころの内容も、次々と生じては消えていく。この事実を、ただ事実として見つめる。それが無常の観察です。
二つの眼差しが重なるところ
フッサールの把持と、初期仏典の無常。
二千四百年ほど離れた、ヨーロッパとインドという全く異なる場所で生まれた、全く異なる言葉づかいの思考です。けれど、両者が見つめている現象は、驚くほど近いところにあります。
- フッサールは言います
-
「いま」鳴っている音は、すでに過ぎ去りつつあり、同時に把持として保たれていく。
- 初期仏典は言います
-
こころは一瞬ごとに生じ、滅していく。猿が枝から枝へ飛び移るように。
どちらも、「いま」が固定した一点ではなく、絶え間ない生滅の流れであることを見つめています。違うのは、その同じ事実をどう描くかです。フッサールは、流れる時間意識の精緻な構造として描いた。初期仏典は、こころの生滅の絶えざる事実として描いた。
そしてここから、もう一歩踏み込んでみます。
「わたし」もまた、編まれている
メロディが、一つひとつの音の連なりとして「流れる一つの曲」に聴こえるのは、把持の働きがあるからでした。直前の音をまだ意識上に保持しているからこそ、いまの音と繋がって、一つの流れになる。
では——わたしたちが「わたしは同じわたしだ」と感じているのは、一体どういう仕組みなのでしょうか。
朝起きたわたしと、いまこの文章を読んでいるわたしと、夜眠るわたし。確かに連続した「同じわたし」のように感じられます。けれど物理的には、わたしの身体は絶えず代謝し、わたしのこころは次々と異なる思考や感情を生じさせている。一瞬ごとに、実はわたしの中身は入れ替わっているのです。
それでも「同じわたし」と感じられるのは、おそらく、メロディが一つの曲として聴こえるのと同じ仕組みによってです。さっきまでの「わたし」が把持として意識的に残っているからこそ、いまの「わたし」と繋がって、一つの「わたしらしさ」として感じられる。
ということは——「わたし」もまた、流れる現象なのではないでしょうか。
固定した「わたし」という核がどこかにあって、それが時間を貫いて存在し続けているのではない。むしろ、絶え間なく生じ滅する経験の連なりが、把持の働きによって編み合わされて、その編み目の手触りをわたしたちは「わたし」と呼んでいる現象だと考えます。
メロディが、音の連なりが編まれた一つの流れであるように。 わたしも、経験の連なりが編まれた一つの流れと解釈した方が自然だと思っています。
無我という言葉が指していたもの
ここで、初期仏典のもう一つの中心概念に触れておきたいと思います。
「無我(anattā、アナッター)」という言葉です。
これもまた、しばしば誤解されてきた言葉です。「自分なんて存在しない」「自我を否定せよ」といった、どこか禁欲的・否定的な教えとして受け取られることが多い。けれど初期仏典が言っているのはそういうことではありません。
初期仏典が「無我」と呼んでいるのは、より精密な観察です——「わたし」と感じられているものは、固定した実体ではなく、絶え間なく生滅する諸要素の流れである、という事実の観察。
固定した「わたし」を持っていないからといって、わたしが消えてしまうわけではありません。メロディが、固定した「曲という実体」を持たずに、ただ音の連なりの流れとして成立しているのと同じです。流れることそのものが、「わたし」のあり方なのです。
フッサールの把持構造を経由して読み直すと、無我という言葉は、急に風通しの良いものに感じられてきます。否定でも禁欲でもなく、ただ、自分というものの本当の姿——流れ続け、編まれ続ける現象としての姿——を、ありのままに見つめているだけなのです。
「いま」を眺めるという営み
ここまでの話は、決して抽象論ではありません。
いまこの瞬間、文章を読んでいるあなたの「いま」にも、把持は働いています。たった今読んだ文の意味が、まだ意識上に残っているからこそ、次の文と繋がって理解が成り立っている。あなたが「自分はこの文章を読んでいる」と感じている、その「自分」もまた、いまこの瞬間に編まれ続けている流れです。
このことは、頭で考えて納得することではなく、目を閉じて、自分の「いま」をただ見つめてみることで、確かめられます。
呼吸が一つ、入ってきて、出ていく。 さっきの呼吸の感触が、まだどこかに残っている。 こころに何かが浮かび、また消えていく。 その移ろいを眺めている「わたし」もまた、一瞬ごとに編み直されている。
固定したものは、どこにも見つからない。けれど、流れは確かにここにある。
フッサールが書斎で見つめたのも、初期仏典の修行者たちが樹下で見つめたのも、おそらくはこの同じ事実なのです。二人の眼差しが、二千四百年の時を超えて、いま、わたしたちの「いま」のなかで重なります。
おわりに
無常も、無我も、決して特別な体験を要する難しい思想ではありません。
フッサールは自我の意識を追求し、初期仏典は自我に興る「苦しみ」の根源を探りました。その中で、問われてきたのは、「わたし」とは何かでした。
メロディを聴くという、ごく日常的な経験のなかに、すでにその構造は現れている。フッサールという二十世紀の哲学者の眼差しを借りると、初期仏典のあの古い言葉が、急に手触りのある現象として立ち上がってきます。
異なる文化、文明を背景にして、初期仏典が暴き出し、フッサールがトレースしてきた「わたし」。
この一点を丁寧に見つめることから、初期仏教の「苦しみ」への取り組みは始まるのだと、わたしは思っています。


