はじめに
2010年代、日本では「アルフレッド・アドラー」の心理学が広く受け入れられました。
2013年に出版された『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』が多くの人々に読まれたことは、当時の閉鎖的な社会の状況をよく表しています。近年においても、再びアドラーが注目されてきています。
その背景には、長らく日本社会を覆ってきた、世間の目、他者からの評価や同調圧力といった価値基準から距離を取り、「自分の価値観で生きたい」という欲求の高まりがあったと考えられます。
アドラーのいう目的論――
「人は過去ではなく、目的によって生きる」という発想は、人々に「いま、ここ」を主体的に生きる視点を与えました。
それは確かに、一つの解放でした。
解放のあとに残ったもの
アドラーが知られるようになって10数年。その解放は同時に、別の問題を露わにしたようにも思われます。
他者の価値から離れ、自らの目的によって生きることは、一方で自己の内側に閉じていく契機にもなり得ます。本来、アドラー心理学は
共同体感覚――
「自分は大きな共同体の一部であり、居場所がある」と感じ、他者を仲間として信頼・貢献しようとする感覚
を重視していましたが、現実には、共同体自体を感じ取るような素地もない人々にとって、個人の自由の強調として受容される傾向が強くなってしまったのではないでしょうか。
その結果として、価値観が先行することによって分断を促し、判断基準を個人で持ってしまうことから、他者との関わりの希薄化が進んでいったように見えます。
その空白を埋めるもの――SNS
こうした、個人と他者とのつながりの希薄化を埋めるように台頭してきたのが、SNSです。

SNSは、個人が自由に発信し、自らの価値観を表現できる場として広がりました。しかしその構造は同時に、比較や承認欲求を促し、瞬間的な反応を暗黙の裡に要求する側面がありました。
個人の価値観の及ぶ範囲を少し大きくした、同じ価値観を共有するもの、または互いの価値観を表面的にすり合わせることのできる集まりに留まる傾向にあります。
つまりSNSは、一見すると個人の自由を支えるツールでありながら、実際には他者との関係における新たな依存構造を生み出しているとも言えます。
目的論とSNSの共振
ここで興味深いのは、目的論とSNSの相性の良さです。人は自分の生き方をはじめ、自分の価値観や自分の物語を持とうとします。SNSはそれを可視化し、評価可能な形にします。
その結果、人は自分の人生を演出し他者と比較し、自己像を維持しようとするようになります。これは、より洗練された自己への執着とも言えるでしょう。
なぜ問題は解決しないのか
ここに一つの限界があります。目的論は「どう生きるか」を提示しますが、「なぜ苦しむのか」という問いには十分に踏み込んでいません。
また人々の関係性を補完するように発達してきたSNSは、「繋がり」を提供するようでいて、実際には比較と反応の循環を強めていきます。そのため、自己を確立しようとしても、他者とつながろうとしても根本的な不安や苦しみは、形を変えて現れ続けます。
近年のアドラー心理学への見直しは、この十数年、目的論を軸に歩み続けてきた読者層が、SNSによる疲労や、自身の「老い」の気配に触れるなかで、「目的論のほころび」を感じ始めた結果ではないでしょうか。
その揺らぐ気持ちの中で、人々はあらためて、アドラー心理学の内に見落としてきた何かを探ろうとしているように思われます。
問われるべきもの
ここで必要になるのは、そもそも生き方の選択ではなく、
ではないでしょうか。お釈迦さまは、苦しみの原因を外界ではなく、こころの働き(渇愛・取)に見出しました。
人は、自己像を作り、それを守ろうとし、他者との関係の中で揺れ続けます。その過程そのものが、苦しみを生み出しているのです。
アドラー心理学と「老い」
ここで、わたしのような「老い」ていく者の視点から、アドラー心理学を見てみましょう。

若い時代には、アドラー心理学は非常に有効です。若い頃には、成長、達成、自己実現といった目標によって、目的論は力強く機能します。しかし年を重ねるにつれ、
- できていたことができなくなる
- 社会的役割が薄れていく
- 他者との関係が減っていく
といった変化の中で、「何を目的として生きるのか」という問いそのものが揺らぎ始めます。
そうして、老いのある段階で、人は次の問いに直面します。
「何もできなくなったとき、自分は何なのか?」
この問いに対して、
- アドラーは「別の意味を見出そう」と言う
- お釈迦さまは「その“自分”とは何かを観よ」と言う
ここに決定的な違いがあります。
まとめ
2010年代におけるアドラー心理学の流行は、人々に「自分の人生を生きる」という視点を与えました。アドラー心理学は基本的に「意味を作る主体」を前提としています。
一方で、老いのある段階では、人は次第にその主体性そのものを維持できなくなってきます。前提が揺らぎ始めるのです。
そうすると、アドラー心理学の枠組みでは、とりわけ「老い」の問題が届き難くなります。
あくまで、届き難くなるのであって、老いてもなお確固たる主体を持てる強さがあれば問題ないのかもしれません。しかし、「老い」を突きつけられている人々の多くは、それほど強くはありません。
人が現代で陥っている「比較」「承認」「自己像」の循環を断ち切るため、あるいは「老い」に直面した処方箋としては、新たな価値観を持つことでも、新たな生き方を選ぶことでもなく、
が必要になります。それは、「どう生きるか」という問いから、「いま、何が起きているのか」という問いへの転換です。
若いころから挑み続けてきた自己実現への模索など「老い」の前では無力です。
「起きている変化を受け止めていくこと」でしか、自分が生まれ引き受けてきた「生」や、やがて来るだろう「老い」の苦しみを乗り越える術はありません。



