時間の外へ

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はじめに

これまで数回にわたり、市場経済が覆い隠しがちな人間の属性――とりわけ「苦しみ」について、さまざまな角度から考えてきました。

ここで、ひとつ断っておきたいことがあります。

わたしは、市場経済そのものを「悪」と言いたいのではありません。経済や社会情勢は、いわば天候のようなものです。

戦国の世を絶え間ない嵐にたとえるなら、現代の市場社会は、見通しのきかない「濃霧」に近いのかもしれません。しかもその霧は、外側だけでなく、わたしたち自身の内側にまで入り込んでいます。

ちなみに、お釈迦さま存命の時代は、古い部族社会から専制国家(マカダ国やコーサラ国など)へ移行する嵐のような中にありました。

この「濃霧」の発生原因を突き止めなければ、わたしたちのこころの中を見通すことはできません。

このブログでは、その立ち込める霧のなかで、どうすれば自分の「苦しみ」と向き合う道筋を見いだせるのかを主題にしてきました。もし日々を楽しく穏やかに過ごせているなら、それに越したことはありません。けれど、息苦しさや違和感があるなら、いま立っている場所を確かめ直すことには意味があるはずです。

さて、市場経済をめぐる考察は、今回と次回でいったん一区切りにします。今回扱うのは、このブログでも繰り返し取り上げてきた「時間」です。

これまで市場経済を中心に書いてきましたが、その基盤には「人々の欲望」と「時間の観念」があります。この二つが両輪となって、わたしたちの生き方を強く方向づけています。

今回は、社会に深く埋め込まれた「時間の観念」について、あらためて考えてみたいと思います。

直線的な時間とは

わたしたちは、直線的な時間軸のなかで生きています。

「過去」「現在」「未来」——この三つの言葉はごく自然に思い浮かびますが、実は、その観念に縛られた生活を、知らず知らずのうちに強いられています。

わたしたちは、学校教育というシステムによって、1年刻みの階段に並べ、一歩ずつ「上」へ登ることが当たり前であるかのように育ってきました。これは、時間が過去から未来へ進むという考え方ときわめて親和的です。

すなわち、時間が過去から未来に進んでいく概念は、年齢を重ねていく人々にとっては、とても馴染みやすく、誰にでもそこに自然と自分を合わせて生きていくことができます。

その結果、「人生は一本の線である」という思い込みが強化され、「時を前へ流す」という発想が、教育・宗教・経済の三位一体によって、現代社会の強力な骨組みになっていきました。

直線的時間のルーツ

なぜわたしたちは、時間を「線」として捉えるようになったのでしょうか。

一つには、キリスト教的世界観の影響があります。

聖ヴィート教会

西洋的な時間観の底流には、世界の創造(始まり)から最後の審判(終わり)へ向かう、一回限りの物語があります。この「目的へ向かう時間」は、のちに世俗化され、科学や社会の「進歩」という概念へと姿を変えました。

もう一つは、社会に広がる「成長」という名の宗教です。

企業体が成長を宿命づけられている以上、その論理は個人にも浸透します。現代では、宗教的救済に代わるかのように、「自己実現」や「自己成長」という言葉が人を駆り立てています。

昨日より今日、今日より明日、より高い場所へ到達しなければならないという強迫観念は、この一直線の時間軸から生まれています。

「実現」という名の焦燥

個人が「何かを実現する」という目標を持つことは、一見ポジティブに聞こえます。しかし、それは常に「今はまだ、目的地に達していない不完全な状態である」という自己否定が潜んでいます。そのことについては、以下の記事でも触れました。

わたしたちは、「いつか」のために「今」を犠牲にする生き方をしています。 成長を追い求める直線的な生き方において、「今この瞬間」は常に「未来の成功」のための手段へと押し下げられます。。

以前記事にした効率(タイパ)を求めるのは、人生という「有限な線」をいかに短縮し、より多くの実績を詰め込むかという、終わりなき時空争奪戦なのです。

立ち止まることの「恐怖」

もしわたしたちが立ち止まってしまったらどうなるか。現代社会において「立ち止まること」や「後退すること」は、システムからの脱落とみなされます。

私事で恐縮ですが、がむしゃらに働いていた若い頃、体調を崩して会社を休み、寝込んでいた時期がありました。

プロジェクトから外されてしまうのではないかという不安に駆られ、まだ回復しきっていない身体のまま、無理をして出社したことも、何度かあります。

いま振り返れば、プロジェクトを外れること自体は、人生を左右するほどの出来事ではありませんでした。けれど当時のわたしは、それをきっかけに「社会から脱落してしまうのではないか」という、強い焦燥感に支配されていたのだと思います。

東京駅の夜景

社会の「空気」というものは、いつの間にか、知らぬ間につくられていきます。その空気は、人の考え方や振る舞いの奥にまで入り込み、社会の枠から外れてしまうことへの恐れや不安を、少しずつ育てていきます。

振り返ってみれば、わたしも若い頃は、そうした空気を疑うことなく吸い込みながら、生きていたのだと思います。

立ち止まる「可能性」

本来、命には「上」も「下」もありません。季節が巡り、花が咲いて散るように、そこにあるのは「変化」であって「向上」ではないはずです。

企業体の論理が集積したこの社会構造には、人の本性と相いれない性質が、もとから含まれています。とはいえ、この記事の冒頭で説明したように、わたしは「社会の仕組みを変えろ」と言いたいのではありません。

わたし自身、市場社会の恩恵を受けて育ってきた一人です。ただ、その流れに埋没し、ベルトコンベアーの上で走り続ければ、多くの「苦しみ」を一身に背負い込むことになる——その危うさを危惧しているのです。

この社会が強いる直線的な時間軸を一旦俯瞰してみる。そこで初めて、わたしたちは「何者かにならなければならない」という重圧から解放され、等身大の「生老病死」と向き合う準備ができます。

まとめ

多様な価値観と無数の嗜好品に満ちた市場経済において、両輪の一つである「欲望」を制御するのは容易ではありません。しかし、もう一つである「時間」は、見方を変えることで、軸の置き方を変えることができます。

たとえば、瞑想や呼吸への集中は、ただ前へ進み続ける時間観からいったん降りる、わかりやすい訓練です。

時間は、わたしたちをどこかへ連れていく乗り物ではありません。 直線的な「進歩」の夢から覚め、円環的な自然のサイクル、あるいは「今、この一瞬」に完結する生き方を取り戻すこと。

「成長」という言葉で覆い隠されてきた社会の弊害を直視するために、まず、自分たちを縛り付けているこの「一本の線」を疑ってみてはいかがでしょうか。

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