電子書籍をamazonから出版しました。
この書は、わたしの遺言と思っています。
出版した理由は、少しでも大乗仏教に関わっていた人間として
「アウトプットは必要ではないか」と思ったからです。
これは、今年3月まで属していたお寺の住職の受け売りです。
このブログ自体も少しその側面を持っています。
でも、誰でも気軽に読めるような内容ではないし、
適当に読まれて忘れられても本意ではありませんので、
ページ数、価格、共に少しハードルを上げざるを得ませんでした。
思いが変われば、また作り直そうかとは思っていますが、
作り直すにしても、昭和の人間としては、
カラータイマーの点滅が気に掛かるところです。
わたしの世界観は「縁起」です。
この書籍も同様、縁有る方に届くものと思っています。
はじめに
今日で早12月。師走となりました。
今年は、還俗(僧侶を辞めること)したり、電子書籍を出したりと
老いは着実に進んではいても、それなりに動いた年でした。
また、色々なものがわたしの中で整理されていくにつれて、
一層、世の中のカテゴリーから断絶感が強まった年でもありました。
さて、当ブログでは、度々出てくる「はざま」。
真理は、歴史が決めてきた範疇には属していないと思うようになりました。
そこで、どうしてもはざまで語ることになります。
現代の日本社会では、宗教に距離を置きつつも、どこかで“見えない力”を求める人が少なくありません。
神社でお願い事をする。パワースポットに行って気を整える。あるいは、スピリチュアル系の動画や書籍を通して自分の運命を知ろうとする。
こうした動きは、社会の不安や孤立が深まるほどに強まっています。
一方で、「仏教」という言葉は宗教としての制度や儀式のイメージが先に立ち、
“お釈迦さまの思想そのもの”が何を目指し、何を語ろうとしていたのかは、
むしろ時代が進むほどに見えづらくなっています。
今回の記事では、宗教としての仏教・スピリチュアル・お釈迦さまの思想の
決定的な違いを整理したうえで、
宗教やスピリチュアルに陥ると人が見失ってしまう本質について考え、
今年の落としどころとして確認しておきたいと思っています。
宗教としての仏教 ―「枠組み」が与える安心と盲点
宗教としての仏教は、何世紀にもわたり各国の風土の中で形を変えてきました。
寺院制度、僧侶の階級、戒律、儀式、年中行事、供養。
これらは歴史的には地域社会の安定に寄与した側面を持ちます。
宗教のメリット
- 体系があるため、依拠する“場所”がある
- 正しい行い、善悪の基準を示してくれる
- 共通の価値観があることで共同体が維持される
しかし同時に、宗教は「枠組み」そのものが目的化する危険性もはらみます。
宗教の盲点
- 本来の目的(こころの解放)よりも儀式の正しさが優先される
- 組織への帰属が修行よりも重視される
- “救われる側”としての自分に固定され、主体性が弱まる
お釈迦さまは本来、
“人は自分のこころで目覚める”という一点を徹底して説かれました。
ところが宗教の枠組みの中に置かれると、
「目覚める主体」としての自分の影が薄れ、
「正しく信じる側」へと役割がすり替わってしまいます。

スピリチュアル ―「願望」が中心に来る世界
スピリチュアルの世界で語られることの多くは、
願いを叶える方法、エネルギーの流れ、波動、人生の意味、引き寄せ、前世。
これらは人の不安や渇望をやわらげる、非常に魅力的な語り口を持っています。

スピリチュアルの魅力
- 個人の願望を肯定してくれる
- 目に見えない世界の物語性が面白い
- 自己肯定感が満たされる
しかし、ここには構造的な落とし穴があります。
スピリチュアルの盲点
- 願望が中心に来ると、都合の悪い現実を見なくなる
- 解釈次第でいくらでも“正当化”できる
- 自分のこころの癖(煩悩)に向き合う契機が減る
- 本質的な変容よりも「気分」が優先される
結果として、
「願いを叶えること」=「人生がうまくいくこと」
という図式になり、
お釈迦さまが見抜いた“執著のメカニズム”を逆に強めてしまうのです。
お釈迦さまの思想 ―たったひとつの方向性
お釈迦さまは、宗教の創始者ではありません。
まして、願望実現を教えたスピリチュアルの預言者でもありません。
生涯を通して語られたのは、次の一点だけです。
「苦しみの原因は“こころの働き”にある」
そして、
「その“こころの働き”をどう扱うかで人生は変わる」
ここに、宗教やスピリチュアルとは決定的な違いがあります。
次に違いについて詳しくまとめてみます。
仏教、スピリチュアル、お釈迦さまの思想 違いの整理
目的の違い
| 区分 | 目的 |
|---|---|
| 宗教としての仏教 | 正しい世界観・儀式・戒律を共有し共同体を守る |
| スピリチュアル | 願望・問題解決・気分の向上・安心の獲得 |
| お釈迦さまの思想 | こころの観察による“解放” |
宗教とスピリチュアルに欠けているのは、
“自分のこころを見て、自分のこころを整える”という決定的な作業です。

原因と結果の見方の違い
スピリチュアルはしばしば外側の要因を語ります。
- 波動が下がった
- 前世の因縁がある
- エネルギーが流れていない
- 縁が弱い
これらは確かに「説明」としては魅力的です。
しかし、因果を自分の外側に置くため、
自分のこころの習慣(業)を見る視点が弱くなります。

対して、お釈迦さまは徹底してこう述べます。
こころが先にあり、世界は後からついてくる。
この姿勢を忘れると、
人は人生の舵を「外側の力」に委ねてしまいます。
宗教やスピリチュアルに陥ると見えなくなる“大切なこと”
「自分のこころの働き」を見なくなる
願望、祈り、エネルギー、儀式。
どれも悪いわけではありません。
しかし、それらを支える“こころの癖”に目を向けなければ、
結局は同じ苦しみを繰り返します。
わたしが属していた寺院は、これを同時に行おうと試みていましたが、相反する性質のこころの動きが整合するはずはなかったのです。
「自分で歩く」という主体性が失われる
お願いをすること、祈ることは、
「救われる側」としての自分を固定してしまうことがあります。
お釈迦さまは常に、
「主体として立つ人」を育てようとしました。
現実から一歩引いた位置に立ってしまう
スピリチュアル的な思想が強くなると、
現実の課題に対する“生身の努力”が軽んじられ、
気分や「運」だけで人生を語ろうとします。
しかし人生とは、
泥の中で足を動かし続ける地道な作業の積み重ねです。
「目覚め」とは何か
お釈迦さまの語った「目覚め(覚)」とは、
超能力でも奇跡でもありません。
こころが、こころをそのままに見る力。
そこには、宗教的な崇拝も、
スピリチュアル的な願望も入り込む余地はありません。
ただ自分のこころをまっすぐに観ること。
これだけが唯一、苦しみの根を断つ方向に向かいます。
終わりに ―本質はどこまでも“個人のこころ”に帰る
宗教も、スピリチュアルも、
苦しみや不安を抱えた人間の“こころ”が求めた自然な現象です。
それ自体を否定する必要はありません。
しかし、そこに留まってしまうと、
自分のこころの働きに気づく力
自分で歩く主体性
現実に向き合う強さ
という、人生にとって最も大切な要素が見えなくなってしまいます。
祈るこころも願望を実現しようという向上心は大切です。
生きる力になるし、こころが満たされることもあるでしょう。
一方で、そこに留まることなく、またそこだけを追求することなく
ふと気が付いたときに、自分の立ち位置を振り返る余裕が欲しいところですね。






