はじめに:誤解される「座れば仏になれる」という言葉
現代の瞑想や修行の世界では、「誰でもただ座れば仏になれる」という言葉がしばしば語られます。
しかしその理解は、お釈迦さまの思想の本質から大きく離れているのではないでしょうか。
お釈迦さまは、現世の王族としての出自だけでなく、
遥かなる前世から積み重ねた因縁において、すでに並の人とは異なる存在でした。
無数の生を経て苦と慈悲を体現し、果てしない修行を重ねてきたその結果として、
今生において覚醒に至る条件が熟していたのです。
「過去七仏」という言葉があります。この世に出現した仏はこれまで7人。
お釈迦さまは、その七番目に当たります。
お釈迦さまを除く6仏の存在については、
古代インドの概念から外に出ることはありませんが、
わたしの認識では、仏という存在は、仏独自の潮流の中にあって
わたしたちとは流れそのものが異なっていると解釈しています。
お釈迦さまの因縁と修行の重み
このような背景を踏まえると、「座れば仏となる」という言葉が、
お釈迦さまの実際の修行の重みを伝えているとは言い難いことが分かります。
座ること──すなわち静かに心を観じる行為──は確かに尊いものですが、
それは悟りそのものではなく、こころを映すための一つの方法に過ぎないのです。
悟りとは、長い因縁の流れの中でこころを磨き続けた果に咲く花。
一世(ひとよ)の瞑想で到達できるものではありません。
「誰でも仏になれる」は方便である
お釈迦さまの生涯を見ても、「誰でも座れば仏となる」という文脈は見当たりません。
むしろそのような言葉は、後に成立した仏教体系が衆生を導くために設けた方便(ほうべん)──
つまり、真理へ近づくための“架け橋”として語られたものだと考えられます。
「仏の方便」と称されるものはたくさんあります。
方便とは、真理そのものではなく、
人々がその真理に気づくための道標です。
「誰でも仏になれる」という表現もまた、
人々が修行に希望を持ち、歩み始めるための慈悲の手段として用いられたのでしょう。
方便が真理と誤解される危うさ
わたしは、この方便の慈悲を否定するつもりはありません。
しかし、方便がいつの間にか真理そのものとして信じられてしまうところに、
現代仏教の大きな誤解と危うさを感じます。
悟りとは、安易な希望でも、偶然のひらめきでもありません。
それは、無数の生と行為を通じて熟した因縁が、
次第にひとつひとつの実を結び積み重ねていくものです。
座るだけではなく、立ち、歩き、語り、沈黙する。
そのすべてが「修行」であり、「方便を超える実践」なのです。
おわりに:悟りとは因縁の果
悟りは、方便の果てにある“理解”ではなく、方便を超えた“実現”です。
それは過去・現在・未来を貫く因縁の流れの中で積み重ねていくもの。
そして、わたしたちが今この瞬間にできることは、
ただ「座る」ことを通じて、
一瞬一瞬が“いま”を形づくっていることを自覚すること。
その“いま”を大切にするこころを育み、
そのこころのあり方を日々の中で磨いていく――
それこそが、わたしたちにとっての「座って悟る」という行いの真の意味なのだと思います。
悟りとは、遠い未来にある目標ではなく、
この瞬間に立ち現れるこころの気づきであり、
それを重ねていく生き方そのものが、
すでに「仏の道」の一端を歩むことに他なりません。





