こころとは一体何なのか?

はじめに

自分の意志を伝えるためには言葉は不可欠です。互いが会話で使う言葉の中に共有する経験や概念がなければ、意思疎通が難しくなってしまいます。

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例えば、異なる言語や文化圏の人々に、「食べる」といった人間の欲求に関わるような言葉を伝えるときは、身振り手振りで何とか伝えることができます。ところが、少し進めて、食べ物の味を表す「甘い」「無味」「辛い」「渋い」等を伝えるとなると少し難しくなってきます。

これが、人間の欲求とは違ったもっと形而上的で抽象的な概念、例えば「無限」「善」等、抽象的な事象の場合、伝えることは、ほぼ不可能と言っても過言ではありません。

形而上的な概念はたくさんありますが、その中にはこのブログで注目しているこころがあります。こころは、わかっているようでわからない、本当にあるかどうかも分からない曖昧で不思議な言葉です。

このこころについて、自分の中で、はっきりとしておきたいこともあって、今回取り上げてみました。曖昧のまま記事内でこころと言ってみたところで中味に齟齬があっては誤解を招く恐れがあります。

記事内では、こころカッコ付きのこころを使い分けています。それは、一般的に広く使われている「こころ」と、わたしが感得したこころに相当する概念とは異なるとわかったからです。

その違いが分かり始めたのは、決定的な過去生を経験して以来、ここ最近のことです。それでも、このブログで「こころ」使い続けてきたのは、大乗仏教で僧侶をしていた頃持っていた「こころ」の概念の方を引きずっていたためです。

今更感が強いこころですが、わたしが感得していった知見を書き留めておこうかと思いました。

参考資料

「こころ」:一般的に使われている概念

こころ:わたしが知見した概念

言葉と概念

わたしは、テレビ番組を観ることはないのですが、先だって、妻が歴史好きなことから受動喫煙のように受動観覧した番組がありました。

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その時観ていた番組が何だったか定かではありませんが、わたしのような昭和のテレビ世代には「暴れん坊将軍」として有名な徳川吉宗の頃のコメ政策について扱った番組でした。

何となく聞こえてきた番組の解説者のコメントの中で、当時は需要・供給という概念がなく、コメが多く穫れると価格が下がる仕組みが、当時の人々には理解できなかったとありました。すなわち、現代で当たり前のように言われている「供給が需要を上回ると物の値段が下がる」という仕組みが、当時の人々にはわからなかったというわけです。

現在では、「需要と供給」は経済用語として、多くの人々がその仕組みを大まかですが理解しています。しかし、当時は該当する言葉(需要・供給)さえなかったようです。少し調べてみたところ、厳密に言えば「供給」に近いの言葉は、日本の近代以前にもありましたが、その使い方は現代とは少々異なっていたようでした。

需要と供給という概念が一般的になる以前には、コメ等の価格の動きを感覚的に理解していた人がいたのかもしれません。しかし、感覚的であるがゆえに、容易に第三者に伝えることは難しかったと考えられます。

このように言葉というのは、共通する経験や概念が無ければ、人に伝えることがとても難しくなります。そこで何が起こっているのか、どうすれば対処できるのかを理解し伝えるためには相応しい言葉が必要となるのです。

ところが、このような共有作業をこころという言葉では行われてきませんでした。それはなぜでしょうか。

こころの居所

こころという言葉

お釈迦さまは直接こころについて言及されてはいません。仏説では、人に沸き起こる思いの発露については言及されていますが、それが起こっている元については何も書かれていないのです。それでは、お釈迦さま存命の時代、こころに相当する言葉はあったのでしょうか。

古代インドを起源とした言語には、代表的な例として、広くヨーロッパ圏まで使われていたサンスクリット語や経典語として使われていたパーリ語があります。実際、紀元前のお釈迦さまの時代にインドで話されていた言語が、このサンスクリット語やパーリ語か、はたまた古代ドラヴィダ語族か、他の何かだったかは定かではありません。

インドは多くの部族が交じり合ったとても広い国です。通信や放送手段の全くない、村々の接触の機会も少ない紀元前のインドでは、多岐に変化した方言のような言語がたくさんあったことでしょう。

ここでは、日本で比較的なじみのあるサンスクリット語を、当時話されていた仮の言語として考察していきます。

サンスクリット語の中に、現代の「こころ」に近い意味を持つhṛdayaがあります。日本では「真言」という意味で使われる場合が多いようです。「般若経」の「心」にあたるサンスクリット語がhṛdayaとなります。この元々の意味は、「心臓」とか「感情の出どころ」といった意味で使われていました。

日本語の「こころ」も、心臓を基にして、感情など人の内側を表現する言葉として発展していったようです。この辺りは、異文化圏の外国語と共通する部分があって面白いですね。

言語がたくさん交錯した紀元前でも、似たような起源の言葉があったに違いありません。現在では、このhṛdayaに現代日本でも通じるこころの一般的な意味が添えてあります。

しかし、紀元前当時、少なくともお釈迦さまが出現される前には、現代に近い「こころ」の意味はあったかもしれませんが、お釈迦さまが持っていたこころに相当する概念は、hṛdayaの中には無かったとわたしは捉えています。

それは、現代日本語ばかりかあらゆる言語の「こころ」に相当する概念に対しても言えることです。そのことについて、次章から考察していきます。

こころの難しさ

現代では、こころという言葉を当たり前のように使っています。客サービスを中心に、様々な商材に対してこころという単語を使って付加価値を付けているのはご承知の通りです。「こころを込めて作りました」や「こころを添えて届けます」など、たくさんありますね。

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こころは、その言葉自体がとても曖昧です。何となくふんわりとした使われ方をされてきました。「こころ」が一般的にどう解釈されているかと考えてみると、優しさや思いやりといった柔和な感情等や、感情に左右されない強い意志の出所等を言い換えているような気がしています。

他方で、このブログでも再三言っていることですが、物ばかりではなく言葉まで消費する癖が現代では広まってしまっています。

言葉の消費とは

「言葉を消費する」とは、言葉に自分の中で簡単なラベル付けをして意味付けをすることです。これが習慣化されている状態を言います。

人々は、曖昧な意味の言葉に自分なりのラベル付けをすることで安心感を得ようとします。これを無意識的にする癖がついてしまい、あたかも物を消費するように言葉についても行うことが「言葉の消費」というものです。

このように、日本においてこころは曖昧な概念のまま、消費だけされてきた経緯があります。

拈華微笑(ねんげみしょう)

10大弟子のお一人である魔訶迦葉(まかかしょう)尊者の拈華微笑(ねんげみしょう)という逸話をご存じでしょうか。下記に簡単な注釈を添えておきます。

拈華微笑

お釈迦様が説法中、蓮の花をひねり見せたところ、弟子たちの中で一番弟子の迦葉尊者だけがその意味を悟って微笑み、お釈迦様は仏法の核心を迦葉尊者に伝えたという逸話。

~google AIより

わたしは、十大弟子の逸話は、事の真偽はともかくとして重要な意味があると思っています。拈華微笑は一般的に以心伝心を表しているとされています。

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ところが、わたしの所属していた寺院において、以心伝心は当たり前の事象でした。わたしが僧侶であった頃、師匠である住職には、自分の考えていることはほぼ筒抜けだったのです。

わたしが言わんとしていることは、拈華微笑のお話しは、単に以心伝心を表している逸話ではないということです。少なくとも十大弟子とお釈迦さまの間では、以心伝心など日常だったと思っています。

一方、蓮の花は泥水で育ち、清らかな花を咲かせています。これを踏まえて、この世を泥水、その中で自らを浄化し花咲かせるという仏教界隈の譬え話しがあります。万が一、お釈迦さまがこれに似た譬え話しを伝えたかったのであったなら、摘まずに言葉で済ませればよい話しです。

拈華微笑に以心伝心は確かにありました。しかし、このお話しの中には、もっと奥深い真意が隠されています。そこを踏まえて、大勢の弟子の中で、魔訶迦葉尊者だけが感得した真意について考えてみます。

こころの発現

最初に、紀元前インドにおけるhṛdayaという言葉について書きました。当時に使われていたこころに該当する言葉がhṛdayaではなかったかもしれませんが、いずれにせよお釈迦さまが持っていたこころに相当する言葉はどんな言語にもなかったと思います。

それを感得し示したのが魔訶迦葉尊者だったのです。すなわち、言葉にならない「こころ」に近い概念を迦葉尊者だけが感得していました。

言葉にならない概念ですから、以心伝心以外、伝える方法はありません。逸話の真意は、以心伝心そのものではなく、言葉にならない概念=こころです。

ここからはあくまで推測ですが、お釈迦さまが捻華で見せた花を愛でる「こころ」。これが、辛うじて、言葉にならない概念=こころに近かったのだと思います。そうして、魔訶迦葉尊者は「こころ」に近くても遠い概念である真のこころを伝える際に、微笑んでみせたのです。

こころはどこにある?

ところで、皆さんは、こころがどこにあるのかご存じでしょうか。「脳内に決まっている」と思っている方が大勢でしょう。中には、こころを想うとき胸に手を当てることから、心臓あたりかも知れないと思っている方もいると思われます。心臓あたりというのは、「こころ」の語源に則った考え方です。

ここからは、わたしが感得したとても分かり難いセンシティブなお話しになります。

実は、こころは、脳内どころか体のどこを探してもありません。人のこころはこの世にはありません。一人一人のこころは、死んだ後に赴く中陰以後の世界に通じているのです。

しかし、この世の人々は、こころが他の世界に通じていない、もしくはそのことを知らない人がほとんどです。もともとこころにはこの世にはない、概念など存在しないのですから、こころの場所や概念を表現しようとしても曖昧になってしまいます。

「こころ」の経緯

ここで、改めて「こころ」を時系列にして簡単に振り返ってみましょう。

仏説を伝えるキーワードのひとつとして「こころ」が誕生しました。仏教界隈で「こころ」が使われるようになると、徐々に仏教界から世間に漏れ出していきました。

やがて、独り歩きしはじめた「こころ」は、概念も曖昧のまま社会の中でひたすら消費されてきたのではないかとわたしは考えています。

こうして、「こころ」は曖昧な意味のまま、人の感情の中でもデリケートな表現を司る便利な言葉として広く知れ渡っていったのです。

まとめ

こころに該当する意味や概念はありません

だから、こころの真の意味やカラダの具体的な場所が特定できないのです。こころとは、人が死んだ後の世界に通じている目に見えない経路です。

例えば、慈悲とは「こころ」からの発露ではありません。この世にはないこころを通して慈悲があります。善い人が当たり前のように共感している概念です。善い人とは以下に説明しています。

わたしは、これまでこころを言葉にならない概念とは知らずに「こころ」を使っていました。そのことについて、長らく大乗仏教に属していた影響から気が付いていなかったことになります。

人は「こころ」を持ちながら、こころの感得へと長い時間をかけて変化していく生命体です。こころが繋がっている目に見えない世界について詳細はわかりません。わかることはありません。

お釈迦さまが伝えたかった思想はたくさんあります。その大本はこころです。そこからが起ち上がり、無我、煩悩の滅徐や慈悲といった概念から、起塔供養まで広がりをみせます。わたしの場合、これらを起塔供養から逆行して感得していきました。

しかし、該当する言葉や概念がないために仏説には残ってはいません。拈華微笑という真偽不明な逸話に辛うじてその痕跡を見出すことができます。

今回は少し難しかったと思います。きっと、大半の人が「突拍子もないことを書くものだ」と思われたことでしょう。

言葉にできない概念を伝えることは最初から無謀だとも思ったのですが、書き残しておきたかったので挑んでみました。

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