目次
はじめに
瞑想と禅定とを明確に分けるものを修行の要素としたのが、前回の禅定に関する記事でした。
読者の中で修行したいと思っている方は、ほとんどいらっしゃらないとは思いますが、最初に、修行者が修行において、実際どんな過程を踏んで行くのかご紹介したいと思います。
禅定、修行からのアプローチ
修行とは
仏教の基本的な修行には3学といって戒・定・慧という3つの段階があります。この2番目に出てくる定というのが、今回のテーマに含まれている禅定にあたります。
この戒・定・慧を簡単に言ってしまうと、戒によって清浄になったこころを、禅定により安定させ、最後の慧のところで知見を得ようという一連の流れのことです。
慧というのは智慧のことですが、人が生きていくために必要な道理一般を指します。智慧の多くは、自分に関するもので、やさしく言い換えれば「気づき」が適切な言葉だと思われます。
各宗派にみられる禅定への取り組み
禅定といえば、座禅が一般的ですが、座って行うだけが禅定ではありません。また、禅定は、禅の名を冠した禅宗という宗派だけが行っている修行形態と思われている方が多いと思われます。
実は、方法や目的は異なるかもしれませんが、現代の仏教宗派のほとんどのところでは、禅定が修行のひとつとして取り入れられ、試みられています。
わたしの出家した寺院でも、止念観という瞑想を行っていますが、一般的な禅定とは目的が違いますので、ここでは割愛させていただき、一般的な言及に留めたいと思います。
修行の順序
修行には順序が大切です。せっかくの修行の成果が無駄になってしまうかもしれないからです。上記3学の修行では、戒・定・慧がそのまま修行の順序となります。真っ先に慧を得ることはできませんし、定を修めてこころが定まっていないと戒はたちまち崩れてしまいます。
そのため、【戒⇒定⇒慧】この順序が重要となっているのです。しかし、すんなりと順序通りにいかないのが、持って生まれた人の性というものです。
修行の壁
人には、誰しも身・口・意、それぞれに曇りがあります。身・口・意については、以下の記事で詳しく解説しています。

今世の修行でこれを解消できれば良いのですが、根は思っている以上に深く、荒行を繰り返しても解消できないことがほとんどです。
その根にあるものは、業(カルマ)と呼ばれていて、前世から今世に引き継がれています。解消が難しいのは、この業(カルマ)が、時を超えて絡んでいて、そもそも自分では見えないし、わからないことが多いためです。
業(カルマ)は、人が思春期頃に現れてくるこころの癖に関連しています。そのことについては、以下の記事で触れています。
業(カルマ)のような、自らが起こした、あるいは引き起こされた縁を解消するには、永い時間を要します。
業へ挑む人々
戒とは、これまでの自らの行いを懺悔し、曇ってしまったこころを晴らし、こころの清浄を目指すことです。修験者が「懺悔(ざんげ)、懺悔(ざんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」とつぶやきながら、険しい山道を闊歩するのもこの戒の修行のためです。
こころを清浄に保つことは、とても難しいことです。
修験者はわかりませんが、現実社会にどっぷりと浸っているわたしたちが、戒からいきなり禅定をしたとしても、こころの奥底に内在している業によって引きずられ、元に戻ってしまうのは至極当たり前なのです。
裏を返せば、これが人間として生まれ生きている根本の理由です。

~本山 八大龍王尊お滝場にて
宗教の意味
禅定や瞑想を繰り返しても、いつもの生活に戻ってしまうと、業の引力によって元に戻ってしまいます。瞑想教室を毎週受けなければ効果を感じなくなるのも、突き詰めればこの業による作用です。
でも、業など目には見えないし誰も教えてくれません。アプローチさえ困難な怪物です。このように、たとえ山にこもって荒行しようとも、人が独力でできる力には限界があります。
人が独力でできる力には限界がある
そこで、寺院のような宗教施設があるわけです。寺院が真っ当ならば、そこには長い時間培ったこころにアプローチする有効な方法論があるはずです。一方で、寺院に入るには、信仰するよう求められます。信仰とは、一種のマインドコントロールです。
マインドコントロールについて
マインドコントロールは、一般的に悪い意味で使われています。それは、一部の宗教施設が、これを悪用し、財産や時間を献身させることによって、家族まで崩壊してしまう悲劇が、平成になって顕在化し社会問題となったからです。
わたしは、注視すべきは、そのマインドコントロールが、誰のためであるのかだと思っています。教団の維持や幹部の欲望を満たすためなのか、しっかりと見極めることです。
しかし、既に意志に反したマインドコントロール真っただ中にあってしまっては、周りの協力と本人の強い意志がないと抜け出せません。人のこころというには、とてもデリケートなのです。
人は弱い生き物です。宗教は、弱く不安なこころ持ちの人々に、拠り所を提供する大切な場所です。寺院において、稀に信仰から修行に至る殊勝な方を見かけることがあります。それは、おおよそ100人にひとりの割合です。
わたしは、僧侶としての経験から、信仰と修行とは根本的に違うと考えています。
信仰のみならず、修行のためにマインドコントロールを自分でコントロールするためには、むしろ信仰を求める団体に属さない方が得策かもしれません。
瞑想教室
ちまたでは、信仰に寄らずに手軽に瞑想体験ができる施設が整っています。最近では、体幹トレーニングと合わせたヨガ教室が主流のようです。
このような教室に週に1~2日ほど定期的に通えば、気持ちが落ち着き穏やかに暮らすこともできるでしょう。欲望に囚われて、自分を見失っている多くの現代人よりは、遥かに進歩的だと思います。
一方で、一般の瞑想教室では、宗教施設のように、こころの在り方にアプローチしていくことはありません。
まとめ
業というのは、誰しもこころの底にあり、希に気付くことがあっても、なかなかわからない厄介な怪物です。不安や混乱を引き起こし、周りをも巻き込んで不幸の種となることさえあります。
しかし、業を抱えながらも進めていく手段はあります。
宗教に寄らない禅定の方法
お釈迦さまのお弟子さんたちは、阿羅漢果を得るために禅定を行っていました。それは、傍らにお釈迦さまがいらっしゃったからできたことです。また、お釈迦さま存命の時代の集いは、決して宗教教団ではなかったことも知っておいてほしい点です。
現存するほとんどの仏教教団は、それぞれの教祖の教えの下にあります。それでは、お釈迦さまがいらっしゃらない現代で、聖者を目指したい方々に出来ることは何もないのでしょうか。
わたしは、わたしたちの社会生活の中での心掛けが、その出発点だと考えます。身・口・意に現れている自分の業は、こころを見つめていくヒントと思い換えましょう。毎日の心掛けが大切ということです。それは、聖者への道を照らす可能性をも秘めています。
まず、誰のためでもない、自分のためだけのマインドコントロールを意識することです。次回は、このことを基にした効率的な瞑想について言及してみたいと思います。