ズレー目に見えない世界と仏教の本質をめぐって

目次

はじめに

目に見えない「縁」を、うっすらと感じ取っている人は少なくありません。
それは明確に見えるものではなく、ただ“感じる”程度の曖昧な働きです。

けれども、わたしたちの世界は、この目に見えない縁を基盤として成り立っています。
それは、科学をもってしても永遠に解明できず、宗教でも思想でも語り尽くせない、
この世の構造そのものに深く組み込まれた原理なのです。

もし人が、目に見える世界だけを頼りに生きてしまえば、
人生の本質を容易に見誤ってしまうでしょう。

この目に見えない領域に触れていくと、そこには古代インド哲学の「アナートマン(非我・無我)」という思想が横たわっています。

画像はイメージです。

わたし自身の経験からも、人は死後も意識として存在し、神的な存在もまた確かにあると感じています。
しかし、多くの仏教宗派が本来は“目に見えない世界”から出発しているにもかかわらず、
わたしの経験とはどこかズレが生じている──その由来を探ってみたいと思います。

今回は、古代インドのアナートマン思想を源流に、そこから派生した「空」や「無我」の概念をたどりながら、
この“ズレ”の正体を、あえて不毛とも思える思索を通じて探っていきます。

仏教の基本:空について

「空(そら)」という言葉を聞いて、まず思い浮かぶのは、
見上げれば広がる大気の空間──晴れた日に雲が流れるあの「空」でしょう。

「空(そら)」の字には「からっぽ」という意味が重ねられ、
そこから「空(くう)」という読みが生まれると、
その意味は一気に仏教的な深みを帯びていきます。

お釈迦さまが説かれた「空(くう)」は、単なる“無”を指すのではありません。
現代仏教が構築された根幹には、この「空(くう)」の思想が据えられています。
では、その「空」とはいったい何を意味するのでしょうか。

日本仏教における空の理解

仏教の基本概念の一つに、「万物は空(くう)」という言葉があります。
しばしば「空=何もない」と解釈されがちですが、
それはお釈迦さまの本意からは遠い理解です。

この世界に存在するあらゆるものは、物質で構成されています。
その起源をたどれば、確かに“何もない”状態から生じたように見えます。
そのため「万物は空だ」と説明されるのです。

けれども、もしすべてが空であり、人もまた空であるとするならば、
こうした結論に至るかもしれません。

「人が亡くなっても何も残らない。したがって死後の世界も存在しない。」

しかし、この物質的理解にとどまっていては、
人間という存在の本質には到底たどり着けません。
わたしたちの内には、物質だけでは説明できない何かが確かに存在しているのです。

ここから、空の概念は「絶対的な存在性の否定」や「縁起」という
より深い哲学的意味を帯びていくことになります。

ズレの起点:無我とアナートマン

仏教における「空」をさらにたどると、「無我(むが)」に行き当たります。
日本ではこの二つがほぼ同義のように扱われていますが、
本来「無我」は、古代インド語の「アナートマン(非我)」を起源とする概念です。

お釈迦さまが説かれた「無我」は、
「我(アートマン)」という永遠不変の実体的存在を否定する思想でした。
それは、人が固定的な“自我”に執着することこそ苦の原因であるという、
実践的な洞察に基づいています。

ところが、後世の仏教においては、
このお釈迦さま本来の無我思想が「存在そのものの否定」と混同されていったように思われます。
すなわち、アナートマンが本来示していたのは「実体的我の否定」であって、
「何も存在しない」という意味ではありません。

初期仏教で説かれたアナートマンが、時代とともに「無我」として翻訳され、
さらに「空」と結びつく過程で、
「人には肉体から独立した意識も存在しない」という解釈が広まりました。
このようにして、**お釈迦さまの実践的な無我(=執着の解体)**が、
**後代仏教の形而上学的な無我(=存在否定)**へと転化していったのです。

しかし、本来の「無我」も「空」も、「何もない」という意味ではありません。
人の本性が“無”であるはずがない。
むしろ、そこにこそ「縁」という、見えざるつながりの網が息づいているのです。

無我と縁の関係

本来無我とは、わたしは無いという意味ではありません。無我は、この世に単独で存在するものは存在しないということを人に置き換えた言葉です。言い換えてみれば無縁無我ということです。これは、空においても同様です。

縁なき所に我あらず

縁が結ばないところに我は存在しません。

無我とは、縁がまだ結ばれていない、
曖昧で未分化な「存在以前の状態」を指すのです。
そして、すべての縁を解き終え、
輪廻から解脱した状態が「無我」と呼ばれます。

空とは、その無我に附帯して同時に生じる「場」のようなもの。
つまり、空は縁によって開かれる存在の状態であり、
生を受けながら目指すべき理想的な境地とは異なります。

まとめ

日本仏教における「空」と、わたしの実感とのズレ。
その原因は、結局「目に見えない世界」──すなわち縁の捉え方にあります。

空も無我も、突き詰めれば「縁」を抜きにしては語れません。
人も、モノも、出来事も、すべてはこの縁によって織り成されています。

ところが現代の仏教界では、「空」という教義を根幹に据えながら、
その“空”を支える縁や意識的存在の可能性を
あえて封じ込めてしまっているようにも見えます。
それが社会的配慮なのか、あるいは歴史的経緯によるものなのかは分かりません。

ズレを完全に克服することはもはや難しいでしょう。
しかし、お釈迦さまが説かれたのは、
人が長い時間をかけて複雑に絡めてしまった縁を、
少しずつ解いていく**行(ぎょう)**そのものでした。

その教えは、紀元前のインドでも、いまのわたしたちの時代でも、
決して変わることのない真理です。

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