はじめに
日本に育った方で、「菩薩(ぼさつ)」という言葉を聞いたことがない人は少ないでしょう。
観世音菩薩、文殊菩薩、弥勒菩薩などが有名で、寺社で祀られる姿もよく目にします。
しかし本来、菩薩とは特定の人物や存在を指す言葉ではありません。
一般的に、菩薩は、如来とほとんど区別のつかないほど高い境涯にあって、わたしたちからははるか遠い存在のように思われています。
だから、「祀られているのだ」という見方もあるかもしれません。

けれども、菩薩とは決して遠い世界の存在ではないのです。
今回はその「菩薩とは何か」を基本に、四聖に生きる方法をやさしく整理してみたいと思います。
四聖
仏教では、わたしたちが修行によって到達を目指すとされている「四聖(ししょう)」という段階があります。大乗仏教では、特に注目している修行の段階になります。
それは声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩(ぼさつ)・仏(ぶつ)の四つであり、仏は別格として、菩薩はその中でも最上位に位置づけられます。
縁覚を除いて、大乗仏教では四聖を重要な修行の段階としています。
では、なぜ大乗仏教では縁覚が除かれるのでしょうか。
それは、大乗仏教が「生きとし生けるものすべての救済」を目的としているのに対し、縁覚は自らの悟りのみを追い求める立場にあるからです。
ちなみに、わたし自身はこの縁覚に近い立場にあると感じています。
そのため、大乗仏教の修行段階からは自然と外れ、僧侶の職からも離れることになりました。
けれど、それは背を向けたというよりも、別の道を歩むよう導かれた―そんな感覚に近いものでした。
また、「なぜ仏は別格なのか」を合わせて以下に詳しく書いています。

さて、この四聖の内、最も高い段階にあるのが菩薩です。
菩薩という言葉は、サンスクリット語の ボーディ・サットヴァ(Bodhi-sattva) の音写であり、漢訳では「菩提薩埵(ぼだいさった)」といいます。
意味は「悟りを求める者」。しかし、より正確には「悟り続けて生きる者」を指します。
つまり菩薩とは、悟り続けて生きる存在なのです。
これは現在進行形であり、私たちもまた、いまこの瞬間から菩薩になれる可能性を秘めています。
悟りとは何か
では、「悟る」とはどういうことでしょうか。
「悟る」とは、雷のように訪れるものではなく、
いつもの日常の中で、静かに積み重なっていく気づきのことです。
ところが、ここに近代以降、積み重ねられてきた誤解があります。
それは、悟りを「神秘的な体験」や「特別な階位」とみなしてしまったことです。

実は、悟りには終着点がありません。誤解の要点であるどこかに到達したら終わりというものではなく、
この世にもあの世にも、無数の悟りがあるのです。
観音・文殊・弥勒といった名の菩薩たちは、各々が深く大きな悟りを体現しています。
たとえば観音菩薩の悟りは、文字通り「観じ取る」力。
人の表情や言葉、仕草などから、その人のこころや背景を瞬時に感じ取る――
いわば「ピン」と来て「カン」と悟る、直観の悟りです。
また、法華経に登場する「常に軽んじない」という意味をもつ**上不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)**の名も、菩薩を理解するうえで分かりやすい一例です。
彼は、どんなに叱責され、迫害を受けても、相手を責めることはせず、
「あなた方は皆、菩薩の道を歩み、やがて仏となる方です」
と、すべての人に対して同じ言葉をかけ、礼拝し続けたと書かれています。
わたしの感得からすれば「仏」に対して一言はあるものの、愚直とも言える上不軽菩薩の行為は、どんな存在の中にも仏の可能性を見出すこころのあり方を示しています。
けれども、わたしたち凡夫は、このような菩薩の名に匹敵するような大悟には一足飛びには至りません。
むしろ、日々の小さな気づき(小悟)を積み重ねていくことこそが、菩薩への道なのです。
たとえば、ふとしたときに
ちょっと言い過ぎた・・・控えよう
と感じて反省できたなら、それも悟りのひとつです。
ただし多くの場合、気づいてもすぐに元に戻ってしまいます。
だからこそ修行者は、得た悟りをこころに留めるために**禅定(ぜんじょう)**を行います。
悟りを得て終わりではなく、悟りを保ち続ける——それが「悟り続ける」という意味です。
菩薩への入り口 ― 声聞行
悟りへの第一歩は、日々の暮らしの中で、お釈迦さまの言葉に耳を澄ませて生きること。
これを**声聞行(しょうもんぎょう)**といいます。
たとえ、お釈迦さまの肉声を聞けなくとも、
その思想にこころを寄せ続けることこそが、真に「聞く」という行為なのです。
- 「最近、余裕がないな」
- 「すぐカッとなってしまう」
- 「人の欠点ばかり目についてしまう」
こうした気づきを習慣化し、腑に落としていく。
このことが、結果的に「四聖に生きる」ということです。
まとめ
わたしたちの中には、さまざまな“内なる衆生”が住んでいます。
つい言葉が過ぎる衆生、嫉妬深い衆生、自信をなくした衆生……。
その一つひとつに、前世からの業が絡んでいることもあるでしょう。
菩薩とは、神仏のように祀られる存在ではありますが、
その本質は、わたしたち一人ひとりの内に眠る「覚醒の可能性」です。
祈る対象でも、遠い天上にあるものではなく、
自らのこころの奥に息づく“目覚めゆく意識”―それが菩薩なのです。
ただ、自分の中に小さな悟りを実感できるようになったとしても、
誰かに気づかれるわけでもなく、何かが劇的に変わるわけでもありません。
けれども、あなたがその小さな一歩を踏み出した時、
確実に縁起は少しずつ変化をし始めています。
その歩みこそが、あなた自身が四聖のひとりとして、
そして菩薩として生き始めている証なのです。





