はじめに
最近、私は「時間」について考えています。私たちは毎日あたりまえのように時計を確認しますが、その当たり前さゆえに、時間があらゆる万物に共通する普遍的なものだと勘違いしがちです。
しかし時間とは、本来人間だけが認識する特殊な概念です。揺れやすい時間感覚を技術的に整え、社会生活のために「絶対的」らしく運用しているにすぎません。言い換えれば、時間は人間が生物的な変化を確かめるための指標なのです。

ところで「劫(こう)」という語をご存じでしょうか。未来永劫という熟語にも用いられる仏典上の時間単位で、神の半日に当たるとされ、人の時間に置き換えると約43億年に相当すると言われます。想像を超える長さです。
一方、仏典には刹那(せつな)という極めて短い時間も登場します。刹那は、縁起(サンカーラ)の元にもなる重要な単位です。劫と刹那——宇宙規模とミクロの両極を示すこの時間観は、仏教における人の営みの尺度を形づくっています。
仏教は紀元前に興ったお釈迦さまの思想が基になっています。私は、紀元前の人々と現代人を分ける大きな違いの一つが時間感覚だと考えています。忙しさが挨拶のように飛び交う現代にあって、仏教と時間の関係を考えてみましょう。
現代の時間感覚
現代は、まさに時間に追われる時代です。日本に仏教が伝来した頃や、ましてや紀元前の世界と比べれば、同じ時間が流れているとは思えないほど、日々はせわしなく過ぎていきます。

通信・放送手段のない古代、情報は人伝(ひとづて)に伝わり、伝え手の信用とともにゆっくり吟味・咀嚼されていました。いまはネットの更新が日常の速度を実際以上に速く感じさせ、今日の流行が明日には終わっていることも珍しくありません。
数十秒の動画はスワイプで消費され、情報の質より量の支配力が増しています。「タイパ(Time Performance)」という造語が示すように、現代人は許容できる時間に対する価値を瞬時に判断し、短時間での効果を求めがちです。寿命は延びたはずなのに、特に若い世代ほど「時間をかける」ことに慎重になっています。
貴重な時間の余裕感
時間に余裕を感じること自体が、現代ではひとつの贅沢になりました。隙間があればすぐに予定を詰める生活では、「余裕」という概念そのものが希薄になります。

しかし、乱されない時間を確保することは仏教において不可欠です。仏教は「こころ」を重んじます。時代の速度は個人の心に大きく作用し、情報過多は混乱や盲目化を招きやすい。心の安らぎや生きる糧を仏教に求める人が増える一方で、他のプラクティスと同様、数か月〜数年での成果を期待してしまう傾向も強まっています。
あらゆる商品やサービスが時間短縮を価値に掲げる時代ですが、仏教はサービスではない。タイパ/コスパの価値軸と仏教の実践は本質的にズレているのです。仏教が廃れていくのも無理からぬ面がある、と感じるゆえんです。
仏教が要請する「長い時間」
お釈迦さまの思想を実践し身につけるには、長い時間が必要です。先の「劫」という概念が、仏教的時間観の片鱗を示しています。高学歴社会にあって思想を理解することは可能でも、理解と体得は別問題です。
各宗派は現代の要請に応え、瞑想など短期で効果を実感しやすい実践を取り入れてきました。それ自体は有益ですが、そこで「完了」とみなすなら、本来の道筋から外れます。仏教の本質は、今世で成果が見えなくとも、こころの統制を粛々と継続して養うこと。こころを制するには、長い、長い時間が要るのです。
お釈迦さまの思想の真髄は、こころの統制を継続して養っていくこと。
仏説に見える修行は、一年や十年の単位にとどまりません。数百年、数千年というスパンを要することすらある。前世の記憶がない私たちに、迷いや絶望に費やす暇は本来ないのです。迷いや絶望は、多くの場合短い時間感覚が生む副作用でもあります。
まとめ
「人生百年」と言われますが、実感としての可処分時間はそう長くありません。今がいちばん大切です。これからどう生きるべきか、答えを急ぐ必要はありません。赤子の歩みでも十分だと発想を切り替え、しばし時を忘れて、これからの自分の歩みをじっくり再考してみてください。
急がないこと。続けること。
その「長さ」こそが、こころを育てる時間なのです。





