啓示のかたち

お断り

この記事内では龍神からのメッセージを啓示と称しています。わたしが属していた寺院において、実際の呼称は違っていますが、寺院の教義から離れたことで啓示を使うようになりました。ややキリスト教系に聞こえてしまいそうな用語ですが、予めご了承ください。

はじめに

仏説1を読んでいくと、「人によって説かれた内容が異なる」と仏説の信ぴょう性を疑うコメントを目にしたことがありました。仏説の真偽はともかく、求めてくるもの全員に共通した答えなどあろうはずがありません。なぜなら、人を見て、その人に合わせて、話す内容も変わっていくからです。いち学生と弟子とでは、同じ質問でも内容が違っていくのは当たり前のことです。

わたしの寺院では、お釈迦さま存命の時代にされていたような個別に説かれていたこの方法を、法華経を依処2として龍神からの啓示をもって教義化していました。これは、信徒さんへのご利益の側面もありますが、主眼を置いたのは、その啓示をもとに自分の修行の方向性を見出すためです。

わたしは、こころの修行の点から宗教について否定的ですが、龍神を勧請し啓示によるこのシステムはとても合理的だと思っています。自己流の修行で盲目的に走り出してケガなどしてはいけませんので、神より方向性を聞くだけでもありがたいものです。

ただ、わたしが出家した寺院では、その啓示を基にした修行の体系が確立できていなかった点が残念でなりません。最も、宗教と修行とでは基本が油と水で相容れない性質です。在家も合わせた修行の体系化は難しいのかもしれません。

目に見えない世界からの情報は、多くの受け取り方があるでしょう。他の宗教団体についてはわかりませんが、かつてわたしが属していた寺院での方法、特に啓示について書いておきたいと思います。

出家後の啓示

守護神の交代

わたしが出家して、神からの啓示を受け取り始めるまで半年余りを要しました。そのことについては、以下の記事の中でも触れています。

その間、滝行をしたり瞑想をしたりしましたが、まったくと言って良いほど啓示を受け取ることが出来なかったのです。ある日、そのことを姉弟子に相談したところ、「あなたを守護されていた観音様から龍神様に変わるのに時間が掛かるためですよ」とのことでした。

今では、すっかり消滅してしまいましたが、昭和の中ごろまで、九州地方の田舎では霊感の強い霊媒師が人生相談を兼ねた祈祷所のような場所があちこちにありました。わたしは幼少の頃より、両親と共に年末年始や家族のイベントの度に、四国に本尊のある観音様をお祀りしている祈祷所にお参りをしていたのです。

わたしの背後に、昔お参りしていた観音様が見えたのか、姉弟子は知る由もないわたしの守護神を見通して、励まして頂いたというわけです。

その後しばらくして、龍神様に守護神が無事変わったのか、面白い様に啓示を頂くようになりました。

守護神とは

ここで神からの「守護」について注意しておきたいことがあります。守護神と言えば、刀や槍でも持って傍らで守っているガーディアンといったイメージを持っている方が多いと思います。

わたしの経験から言うと、いざという時はガーディアンという側面もありますが、どちらかと言えばサポーターといった方が適切だと思っています。

目に見えない世界の中で、肉体を持った人の身ではどうにもならない状況下だと神からの強い守護を感じることがありましたが、通常は補助的な存在でした。神々から「必要以上の介入はしない」という意志を感じていました。

神々の苦悩

このブログでも書いていますが、一般的に八百万の善神たちは人を穢れた存在だとみなしています。

それは、人が死と隣りあわせであることや欲望に塗れているためなどが挙げられます。神々の世界では、時間が存在しません。時間がない世界から人を見れば、人は既に死んでいるとも言える状態なのです。

わたしが出家した寺院の龍神も例外ではなく、人に干渉して啓示を届けることで多大な労力を強いていました。その苦しさの中でも人に助力するための動機となっているのが、仏塔(塔を起てての供養)の下の勧請に他なりません。その労力に少しでも報いるために、儀式において龍神に感謝を伝えることは欠かせませんでした。

また、神々は非礼に厳格です。信徒の犯す多少の非礼について祟らず寛容なのも、寺院で勘定していた龍神が仏塔を供養していたためです。

世間では、やれパワースポットだ縁起を担ぐだの言いながら、欲望を膨らませながら神社にこぞって集まりますが、神々にしたら、さぞたまったものじゃないでしょうね。中にはとうの昔に逃げ出しているところもあるかもしれません。

啓示の受け取り方

大乗仏教の寺院にいた頃、神からの啓示は、主に瞑想中に受け取っていました。

止念観という瞑想
瞑想

瞑想という形態は、約5000年前から連綿と続いていて、お釈迦さま存命の時代では中心的な修行法です。また、日常においては雑音が激しく、雑念が気持ちを覆いつくしてしまうため区切りをつけるためにも重要な手段です。

ちなみに、お釈迦さまの時代の瞑想は、目的が違っていて、お弟子さんの修行進度にもよりますが、理法の定着と自己の専心とが主眼となっていました。

寺院の信徒さんの中には、瞑想をしていてもどうしても雑念が掃えず、覚醒中は難しいという方も多くいらっしゃいました。そこで、瞑想とは別の方法として、就寝前に啓示を願い、霊夢を試みていました。

それは、仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつ かんふげんぼさつ ぎょうほうきょう)に記されています。

心念大乗 昼夜不捨 於睡眠中
夢見普賢 爲其説法


心に大乗を念じて 昼夜に捨てざれば 睡眠の中に於いて 
夢に普賢その為に法を説くことを見ん

仏説観普賢菩薩行法経

この経文の箇所に説かれてあるのは、「こころに念じて就寝すると普賢が法を説きます」と書かれています。経文は普賢という仏が説くと書かれてありますが、仏塔の基の神もまたこの形式に従います。

神の世界から観れば、この世の時間は過去から未来のように直線的ではなく、バラバラで不確定です。そのため、今日あるいは明日などと期日を限定せず、常日頃、こころに留めながら啓示を待つのです。

就寝中に受け取りやすいというのは、特に寝入りや朝方のまどろみの最中は、瞑想中の静慮(じょうりょ)に近い状態であるからだと考えられます

清浄なこころを保つことはとても難しいことです。日常生活を送りながら、やっつけの瞑想くらいではとても追いつくものではありません。そのため人の就寝という習慣を使って、同じ状態を作り出そうという方法を取っていました。

啓示の内容

啓示の誤解

寺院の出家者と違って信徒さんの場合、啓示の内容は自分自身のことに限定されます。

Kさん、あなたは事故に会うみたいだから気を付けてね

などといった信徒さん同士の会話は間違っていることになりますw

僧侶や住職の再確認が必要ですが、おおかた、その信徒さんは事故の夢の前に、Kさんがたまたま登場していたのでしょう。

はじめて神より啓示を受け取ると、とても嬉しくありがたいものです。一方で、神から選ばれたような誤解をしてしまって、このように、信徒さんの間でにわか霊能者化してしまう傾向はどうしても起きてしまいます。

利益(りやく)としての啓示

龍神からの啓示は、修行の指針ばかりではありません。利益(りやく)の場合もありました。わたしは、出家前、事故の可能性や家族の病気についての啓示等で何度も助けていただきました。

例えば、横から飛び出してくる車を見せて頂いたときがありました。霊夢の当日、実際、車が脇道から飛び出してきて、間一髪で避けることができたのです。車の色や形も啓示通り黒いミニバンでした。予め、気がけていると咄嗟の対応に差が出ます。

画像はイメージです

ところで、啓示の中の風景やメッセージには必ず龍神によってそれぞれ明確な特徴があります。その特徴から判別するのは信徒さんには難しいので、ただの夢であっても啓示と勘違いしてしまうケースも稀にあります。

まとめ

啓示を頂くのは、当然信徒さんのこころの状態や霊感の強弱によります。そのため、受け取っているにも関わらず、

なかなか啓示を頂くことができない

と嘆く方もいらっしゃいました。

滝行等で霊感を増したり清浄な状態を作り出したりすることもできますが、例え自身では難しくとも僧侶や住職が代わって受け取っていました

信徒さんの中には霊感がとても強く、もちろん自分自身に関してのことですが、映画のストーリーさながらの啓示を受け取られる方もいらっしゃいました。

また、どちらかと言えば男性よりも女性の方が感受しやすかったようです。

  1. お釈迦様(釈尊)が説いた教法や行状のこと(原始仏典) ↩︎
  2. よりどころとすること ↩︎

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