はじめに
わたしは、大乗仏教の寺院で出家し修行してきましたが、過去生を思い出したことによって、自分の中に南伝仏教の境涯を認識するに至りました。そこで、自分の中の整理も兼ねて、この2つの仏教の流れを中心にまとめてみました。
仏教とは、文字通りお釈迦さまの教えを表します。
仏教は後に宗教化し、大きく2つの流れが発生しました。それらはそれぞれ、アフガニスタン、パキスタン、中国、日本へと北方へ伝わったことで北伝仏教、対してスリランカ、ミャンマー、タイと南下しながら伝わったことで南伝仏教と呼ばれています。

わたしは一般的に北伝仏教のひとつである法華経系の寺院で出家いたしました。北伝仏教は日本では大乗仏教としてなじまれていますが、この大乗という言葉の意味については、後ほど説明したいと思います。
わたしの出家した寺院は、伝統的な仏教寺院の中にあっても、目に見えない世界を肯定し、神々や幽霊とコンタクトことするなど当然としていて、ある意味進歩的なところでした。
大乗仏教という範疇で法華経を主に修行してきたものの、お釈迦さまの教えが腑に落ち、決定的な過去生が突然明らかになってきた中で、わたしが出家当時持っていた仏教に対する考え方も変化していきました。
変わってきたからと言って、自分が寺院で学んできたことを否定しているわけではありません。ただ、わたしのこころの境涯の内に、お釈迦さの純粋な仏説を認識したのです。
通常は、出家した寺院において、踏襲されてきた教えから離れていくことは邪念であり、下手をすれば破門とされるほどの禁忌に触れる考えです。しかし、わたしが経験したことを否定はできないし、このまま前に進むことはできません。
今回は、そんな大乗仏教寺院に属しながら、わたしの中で変貌してきた仏教に対する考え方などを、自分の中の整理も兼ねて書いてみたいと思います。
南伝仏教と大乗仏教
大乗仏教の乗という語は、そのまま乗り物という意味を表しています。大きくて立派な乗り物に乗って、出家者ばかりではなく在家者も合わせて多くの人々を成仏に導くという譬えから来ています。
一方、南伝仏教は、「修行の意志を出家で示せる者だけで解脱を目指しましょう」とする考え方です。現在では、出家者のみならず、在家一般の人々にも開放されているところもあるようです。
簡単に整理してみると、この2つの流れには、個々の宗派の細部の違いを省いて、2つの違いがあります。
- 個人の解脱か人間全体の平等と成仏か
- 出家者限定(一部の宗派)か在家者も対象か
南伝仏教においては、在家のままで修行はなかわず出家は必須となる場合があります。そのため、南伝仏教への出家の入り口は狭く、修行の厳しさなどからも出家には相当の覚悟が必要です。
一方、大乗仏教寺院は在家を主な対象としています。そのため、その門は広く開かれている場合が多く、有髪や妻帯も許可されているところが多くあります。
一方、寺院の中には、供養や祈祷をしながら目に見えない世界については言及していなかったり、否定するところが多いのが現実です。そんな中、わたしが出家した寺院は、住職や内部の人々に目に見えない世界に対する理解がありました。
後述もしていますが、どちらが良い、正しいというわけではありません。ただ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、(修行)と(宗教における信仰)とはまったく別物です。ここは押さえておいて欲しい事実です。
出家について
2つの仏教の流れから、出家がキーワードになっているようですので、出家とはどういうことかまとめてみました。
出家とは
お釈迦さま存命の時代、出家とは、煩わしさを排除し、文字通り家を出て外で暮らすことでした。家の中には雑音が多く、こころを整えていくには色んな誘惑が多過ぎるためです。当時の出家とは、字のごとく「家を出ること」であり、それ以上でもなく、それ以下でもありませんでした。
ただ、家の外に出たことで得る自由もあります。そこで、こころを統制する意味でも規則が必要となってきます。野放しのままでは、人の成長を図るのは難しいのです。
そこで、お釈迦さまは、出家者の戒律を設けてこれを守ることも修行の一環としたのです。
わたしは過去生を思い出して、戒律を守り、こころを統制していく修行を主眼とした出家の重要性に気付かされました。気付かされたからといって、特別何をしたわけでもなく、もともとストイックな生活スタイルに変化はありません。
様々な出家のかたち
大乗仏教は在家の人々が主な対象となるため、南伝仏教に比べて、戒律に対しては緩やかなところもあります。この出家者・在家者を合わせた大乗仏教の修行スタイルは、日本独特の風土によるのかもしれません。
大乗仏教寺院の出家者の中には、大食漢もいれば、喫煙・飲酒をしている方々もいらっしゃいます。わたしは、出家前に婚姻していましたが、出家者でありながら婚姻も許されているところもあります。
すると、戒律が特に定められていない大乗仏教寺院において在家者と出家者を分けているものは何かという疑問が湧きます。
わたしが出家した寺院では、出家の因縁があるものを霊感で見定めて出家の許可を得ていました。中には、出家者の因縁はないものの、在家の人々を導こうという熱意から出家する人もいます。
日本の大乗仏教寺院において、出家者や在家者への戒律が明確に定められていないところでは、その境界がどうしてもあやふやになってしまっています。宗派によっては、学位や試験の合否を持って出家者とするところさえあるくらいです。時代も変わりましたね。
結局、出家において大切なことは、自身の修行にしろ、衆生救済に取り組む熱意にしろ、その覚悟だと思っています。
長くなりそうですので、ページを区切りたいと思います。次ページは「戒律について」です。



