はじめに
なぜ、生前親しかった方と亡くなってから交流ができないのか納得できない方も多いでしょう。なかには親しかった人たちとの久しぶりの交流を、今から楽しみにしている方もいらっしゃるかもしれません。
もっとも、生前親しかった人に対して強い絆を感じていたならば、サムシンググレートな存在の計らいで、ひょっとして会うこともできるかもしれません。ただし、会えるとしても基本的に交流は短いもので、必ず会えるという保証もありません。
では、なぜ、生前親しかった人々や縁深い人たちと好きなだけ会って、できればいっしょに連れ立って次の世界へ、といったことができないのか、短く補足しておこうと思います。
境涯の違い
結論から言ってしまえば見出し通り、
人の数だけそれぞれ境涯が違うため
通常、「境涯」とは、生きている人に対して使われる言葉ですが、人格の程度も表してもいることから、このブログでは境涯という言葉を使っています。
少しステレオタイプの表現ですが、スピリチュアルに興味がある人ならば、霊格の違いといった方が通りが良いのかもしれません。
亡き人が、その生前にどんな生き方をしていたか、今世以前の生涯も関わってきますので、それらを含めて考えても同じ境涯の人が存在しないことは容易に推測できます。
それは、人の数だけ次元が存在し、あなただけに用意された独自の時空空間があるということです。ひとりひとりが、いかに大切に扱われているかが知れますね。
境涯の違いの例
たとえば、わたしの出家した寺院の長崎にある分院へ向かう途中にトンネルがあります。
そのトンネル一帯の山間部は、古戦場であり、キリシタン弾圧の拠点でもありました。毎回そこを通るとき、霊感の強い僧侶の何人かは、そこに漂う大きな因縁を感じて叫び声をあげるほどです。
そこには、戦死者や殉教者が不幸な状況で亡くなり、その不条理な最後から多くの方たちが遺恨を残し彷徨っています。
しかし、お互い物理的に同じ場所にいても、武士と殉教者たちはもちろんのこと、たとえ同じ時代で亡くなった武士同士でも、そして、同じ境遇で亡くなった殉教者同士でさえも、同じ場所に居ることさえ、互いにわからないのです。
おわりに
最後に簡単に天国のような世界のお話しを。
一般的に天国というところは、桃源郷のように温かくて心地よく、古くはお花畑が広がっているというイメージがあるかと思います。臨死体験で、お花畑を見たという話しをよく耳にします。しかし、あれは天国ではない別の場所です。
実際の天国だと思われる世界は、
これは言ってしまえば、そんな世界が居心地がいいという境涯にならないと天国の門は開かないということです。
これもまた、遠いお話しですね。