はじめに
世間が「普通」で、わたしが出家した寺院が「異質」なのか。
それとも、世間のほうが「異質」で、寺院のほうがむしろ「普通」なのか。
これまで書いてきたお話は、どれもわたしの所属する寺院ではごく当たり前の日常の出来事です。
実際、朝礼で住職を囲みながら僧侶たちが話している内容を聞けば、
一般の方にとっては「いったい何の話をしているのかさっぱり分からない」と思われることでしょう。
三年ほど前、甥が若いお嫁さんを連れて挨拶に来たときのことです。
そのとき、わたしはほんの少し「あの世の仕組み」について話しました。
すると、お嫁さんはまるで知らない国の言葉を聞いているように、キョトンとした表情をしていました。
その瞬間、
「わたしが生きて感じている世界は、人々の認識とずいぶん乖離しているのだな」
と、あらためて痛感したのです。
そんな中でも、今回は特に世間ではほとんど話題にのぼらない、
**「輪廻」と「転生」**について書いてみようと思います。
輪廻と転生について
一般的な通念
今回から三回にわたり取り上げるテーマは「輪廻」と「転生」です。
日常生活の中では、まず耳にすることもなく、興味を持つ人も少ないでしょう。
しかし、このブログでは“目に見えない世界”を扱っています。
この二つの概念については、どうしても避けて通れません。
輪廻も転生も、どちらも似た意味で使われることが多く、
また「目に見えない世界」においても、特にあいまいで不明瞭な概念です。
一方、わたしが出家した寺院では、前世の話題が出ることはほとんどありません。
それは、僧侶たちが転生に興味がないからではなく——
**「自分の前世を知っているのが当たり前」**だからです。
分からない仕組み
すべての人は、多かれ少なかれ、
前世の因果や因縁、そして性格までも引き継いで生きているといえます。
そのため、自分の前世を知りたいと願う方も少なくありません。
特に、目に見えない世界を信じている方にとってはなおさらでしょう。
けれども、あまり前世に囚われ過ぎてしまうと、
心の修行が整っていないうちは、生き方そのものが揺らいでしまうことがあります。
そして何よりも、**今この人生(今世)**がおろそかになってしまう危険があります。
人が前世の記憶を持たずに生まれてくるのは、
まさにそのための仕組み——**「今世を真剣に生きるための慈悲の設計」**なのかもしれません。
ちなみに、「輪廻転生」という言葉をひとまとめにすると、
お釈迦さまの時代から、バラモン階級がカースト制度を正当化するために用いた
宿命的・固定的な思想として扱われがちです。
そのため、ネガティブな印象をもつ方も少なくないでしょう。
まとめ
情報そのものが消費されていくようなこの時代、
人々の関心はめまぐるしく移り変わり、
三十秒の短い動画が流行する一方で、
じっくりと法話を聞こうとする人は、ほとんど見かけなくなりました。
わたしは、そんな中で——
ほんの少しでも、自分を振り返るきっかけになればという思いから、
このブログを書いています。
輪廻や転生の話題は、興味本位で終わってしまうことが多いものです。
けれども、わたしは、**「今世をどう生きるか」**を考えるうえで、
これほど大切なテーマはないと信じています。
とはいえ、輪廻や転生は宗教界においてもきわめて微妙な概念です。
むしろ、タブーといってもいいかもしれません。
実際、日本でこれらの概念を公に説いている宗教団体は、
極端な思想を掲げる一部の団体を除いて、ほとんど存在しません。
おそらく、この先の時代では——
「輪廻」や「転生」という言葉そのものが、日本語の中から静かに姿を消していくでしょう。
少し寂しい気もいたしますが、
それもまた、この**移ろう世界の理(ことわり)**なのだと思います。








