なぜ「自分」が見つからないのか

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はじめに

これまで、市場経済がゆっくりとわたしたちに及ぼしている影響について見てきました。

仏教界隈では古くから、この世界は欲望に覆われた「五濁悪世(ごじょくあくせ)」にあると説かれてきました。その意味をあらためて考えてみると、現代社会においては、「生老病死」という根本的な苦しみを見えにくくしていく在り方の中に、その姿が現れているようにも思われます。

それを是正しようという意図ではありませんが、理論として整理することは、時代の姿を見渡すための手掛かりになります。整理していく中で多少強引な部分もあったかもしれません。

それでも、これまで仏教界隈で語られてきた「五濁悪世」の輪郭が、現代社会の課題とどこか重なって見えたなら、この考察は十分意味を持つのだと思います。

今回は、外の社会からの考察から、もう一段わたしたちの中に入り込んで、お釈迦さまの思想を考えていきたいと思います。

濃霧の時代

かつて、お釈迦さまが生きた時代や日本の戦国時代、いわゆる動乱と混乱の中にある世界は、まさに「嵐」の真っ只中だと譬えることが出来ます。

いつ命を落としてもおかしくない、殺伐とした世界。しかし、死が隣り合わせにあるからこそ、人々は「自分はどう生きるか」と、自らと世界を見つめ直す切実な機会に恵まれていました。

その頃、人々が対峙していた現実はむしろ輪郭を持って迫ってきていたと言えるでしょう。当時と比べて、豊かさと自由が謳われる現代は、嵐というよりは「濃霧」の時代です。

画像はイメージです。

命の危険がすぐ目の前にあるわけではない。便利なものは増え、選択肢も多い。価値観は多用し、もっともらしい答えに溢れかえっている。

それでも、何かが見えない。進んでいるのか、迷っているのかさえ、わからなくなる。豊かで自由を謳歌しているはずのわたしたちは、こんな深い「濃霧」の中にいます。

命を奪われる恐怖こそ減りましたが、霧はわたしたちのこころの内側にまで入り込み、視界ばかりかこころの窓さえ塞いでいます。この霧の正体こそ、お釈迦さまが言うところの「無明(むみょう)」、すなわち真理が見えない暗がりの状態です。

情報の上書きがはなはだしいために自分と向き合うことさえままならない、不安と混迷の時代。その真っただ中にわたしたちは生きています。

外の霧が、内側まで入り込む

いまわたしたちは、常に比較の中で生きています。

誰かの成功、誰かの成長、誰かの発信。隣の芝生は、なぜか常に青々としている状態です。
「もっと自分らしく」「もっと成長を」「もっとアップデートを」と、毎日どこかで急かされる。

世間を見渡してみれば、「自分探し」や「自己成長」という言葉があふれています。誰もが必死に、どこかにあるはずの「本当の自分」を見つけ出そうとあくせくしています。

「本当の自分」を見つけ出せさえすれば、「古い自分」と決別し、豊かで自他ともに承認される「新しい自分」に変わることが出来る。この幻想を抱きながら死ぬまで彷徨い続けています。

この状態は、目を閉じているのではなく、見ようとしているのに見えない状態です。それが、現代の深い混乱ではないでしょうか。

しかし、ここで一つの大きな見落としがあります。 わたしたちが「これこそが自分だ」と信じている個性や性格、あるいは「魂らしきもの」を含めて、実のところ「自分だけで完結しているもの」ではないということです。

あなたは「縁起の集合体」である

現代は「まず自分を見つけよう」と言います。そして、見つけた自分を鍛え、更新し、価値を高めようとする。この流れ自体は、一見もっともらしくわたしたちの耳に響きます。

けれど、わたしたちが「これが自分だ」と思っているものの多くは、生まれ持った固定物ではなく、出会った人、育った環境、時代の空気、仕事、家族関係、そうした無数の条件の重なりによって、その都度かたちづくられているものです。

このブログの主旨からこれらに付け加えれば、これに目に見えない前世からの「縁(えにし)」が絡みます。つまり、わたしたちは、最初から完成品としての「自分」を持っているのではなく、関係の中で立ち上がる存在です。

自分とは永遠に固定されることのない変化し続ける現象体

これこそが、わたし、そしてあなたの正体です。

それなのに、「どこかに本当の自分が眠っているはずだ」という前提で探し続ければ、見つからないのは当然です。地図にない場所を、ありもしない地図自体から血眼になって探しているようなものだからです。

例えるなら、自分とは「波」のようなものです。風や海底の地形といった条件(縁起)が重なって「波」という形が見えていますが、水そのものから切り離された「波」という実体はどこにも存在しません。

画像はイメージです。

「おかげさま」とは、単なる社交辞令でも、関係を取り繕うための言葉でもありません。自分を見えないところで形作っている縁起の働き――その存在を認め、称える言葉こそが「おかげさま」なのです。

まとめ

「自分をアップデートしたい」と願うなら、まず「自分を見つけなければならない」と考えるのが現代の論理です。これは、誰にとってもわかりやすいキャッチフレーズです。

現役だった時代、あるいは今現在でも、様々な自分発見のための書籍や動画、自己啓発のセミナーに参加してきた(いる)方も多いことでしょう。

しかし、そもそも「自分という固定された中身」が存在しないのであれば、いくら探しても見つからないのは当然のこと。

「自分探し」という迷路で立ち往生してしまうのは、「探している対象(不変の自分)が、最初からどこにもない」からです。自分とは、周囲との関係性の中で、絶えず変化し続けている「流れ」そのもの

そう腹に落とし込むことができれば、無理に「本当の自分」を定義しようとする苦しみと未完成に囚われた不安感から解放されます。

自分という檻を壊し、ただ目の前の「縁(えにし)」を大切に受け入れていく。その軽やかな生き方こそが、自分を正しくアップデートし、濃霧を晴らす唯一の道なのではないでしょうか。

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