現代の孤独の正体

目次

はじめに

ここ何回かの記事で、奇しくもショーペンハウアーを取り上げる機会がありました。最後に、ショーペンハウアーの視点から「現代の孤独」について見ておきたいと思います。

ショーペンハウアーは、孤独を「優れた精神の宿命」として、どこか肯定的に捉えていました。

しかし、現代における孤独は、彼が語ったその孤独とも異なり、さらに言えば、昭和生まれのわたしの世代が経験してきた孤独とも、ここ十数年のあいだに、明らかに性質を変えてきたように感じられます。

その違いを整理しながら、3つの観点からみてみます。

1. 「知的な隠遁」と「消費的な孤立」

ショーペンハウアーの「知的な隠遁」とは一見難しい言葉ですが、要は一人で過ごすことです。しかし、一人過ごすと言っても、その入り方に意味があります。

ショーペンハウアーが説いた隠遁とは、他者の「生存意志(生きようとする根源的な衝動や力)」による騒音から離れ、自らの内なる精神を豊かにするための能動的な選択でした。

彼は、「人間は一人でいるときだけ、完全に自分自身でいられる」と考えました。しかし、この「一人でいること」にも、「現代のひとり」とは根本的な違いがあります。

それでは、ショーペンハウアーの言う「隠遁」と現代の「孤独」の違いについてまとめてみます。

現代的な孤独の正体

現代の孤独は、多くの場合、能動的な「隠遁」ではなく、社会的なシステムからこぼれ落ちた「孤立」です。

SNSなどを通じて常に「誰かと繋がっていること」が強制される社会では、孤独は「価値のない状態」や「負け組」と見なされがちです。

前回の記事で触れた同苦が成り立つには、自分と他者の境界を一度リセットし、静寂の中で「他者の痛み」を感受する精神的余裕が必要です。

しかし、現代の消費行動(推し活、オンラインショッピング、サブスクサービスなど)に過度に依存・没頭し、自己を埋没させてしまう傾向は、知らぬ間に不安や自己防衛(エゴ)を肥大させ、他者の苦しみを受け入れるための「器」を壊してしまいます。

これを「消費的な孤立」と呼びます。

もちろん、消費行動そのものが悪というわけではありません。楽しむべき時に楽しみ、生活の彩りとして切り分けができているならば、それは豊かな文化の享受です。

問題は、消費が「生活の一部」ではなく「自分を守るための壁」となり、他者との生々しい関わりを拒絶し始めたときに顕在化するのです。

2. 「ヤマアラシのジレンマ」と中距離の喪失

もうひとつの大きな違いは、他者との距離感です。前回の記事で、『スッタニパータ』が書かれた時代を始め、まだ効率化社会が闊歩する以前の世界では、他者との距離感が現在ほど遠くなかったと言いました。

有名な「ヤマアラシのジレンマ」において、ショーペンハウアーは、人間は互いの刺(欠点やエゴ)で傷つかないために、適切な「礼儀正しい距離」を保つべきだと説きました。

ヤマアラシ

現代社会では、この「ヤマアラシ」の距離感ですら近すぎてしまいます。そこには、どんな作用が働いているのでしょうか。

現代社会の極端化

現代は、過剰な密着(同調圧力やプライバシーの侵害)か、あるいは完全な無関心という両極端に振れがちです。

同苦が成立するためには、相手を「客体」として冷淡に見るのではなく、かといって「自分」と混同して感情的に飲み込まれるのでもない、ある種の「観察可能な適切な距離」(観照と言います)が必要です。

現代的な孤独は、この「慈悲を育むための中間距離」を奪い、人々を「冷淡な無関心」へと追いやっています。

3. 「マヤのヴェール」としてのデジタル社会

ショーペンハウアーの哲学において、他者と自分を分ける壁は、前回も取り上げました「マヤのヴェール(個体化の原理)」と呼ばれます。同苦とは、自分と他人を切り分けていたこの壁がふと外れ、「苦しみはみな、同じ場所から生まれている」と感じることです。

虚構の連帯

現代のデジタル環境は、表層的な共感(「いいね」や一時的な”バズる”)を量産しますが、それは個体化の壁を崩すものではなく、むしろ「見栄」や「承認欲求」というエゴを強化し、その壁を厚く高くしてしまいます。

画像はイメージです。

人々が孤独を恐れて虚構の連帯に逃げ込むほど、個別のエゴは肥大化し、他者の真の苦痛(老い、病、死)という「重たい現実」から眼を逸らすようになります。

まとめ

絶え間ない情報と人混みの中で自分を守るため、都市生活者は「無関心」という防壁を築きます。

これは生存意志が、他者という刺激から自己を防御するために編み出した現代的な知恵ですが、同時に自分にとって有益になったであろう可能性まで閉ざしてしまいます。

都市は孤独を埋めるための娯楽(消費活動)に溢れています。これはショーペンハウアーが批判した「退屈から逃れるための仮初めの充足」であり、自己の内面と向き合う「賢明な隠遁」をますます困難にさせています。

ショーペンハウアー的な意味での「賢明な隠遁」は、むしろエゴイズムを鎮静化させ、万人に共通する「苦(ドゥッカ)」を見つめる知性を養います。

この隠遁によって得られるこころの静寂こそが、現代社会が失った「同苦」を回復するための土壌になるのではないでしょうか。

孤独を「負け組」と定義する現代の価値観を、ショーペンハウアーの「孤独を愛する力」によって読み替えること。それが、他者の痛みに再び触れるための、逆説的な第一歩になるのかもしれません。

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