タイパ・コスパに垣間見える現代社会の構造的な闇

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はじめに

わたしは移動の際、できるだけ地下鉄ではなく、バスを利用するようにしています。理由は単純で、窓の外を流れていく景色を眺めていたいからです。地下鉄は確かに効率的ですが、何より、外は暗く、視界に入るのは目の前の人や広告ばかりになってしまいます。

一方、地上を走る電車であっても、車窓の景色に目を向ける人は少なく、多くの人が、空白の時間を埋めるかのように、黙ってスマートフォンに視線を落としています。いつの間にか、かつてなら少し奇異にも映ったであろう光景が、ごく当たり前のものとして受け入れられる時代になりました。

これを毎日のように繰り返していたら、こころも身体も、知らず知らずのうちに疲れが溜まっていくのではないか――
そんなことを、老婆心ながら思ってしまいます。年単位で続けていけば、表に出るかどうかは別として、体に何かしらの歪みが生じても不思議ではありません。

近年、「タイパ(時間対効果)」「コスパ(費用対効果)」という言葉が、若者の日常に深く入り込んでいます。移動時のスマホもこのタイパの一環なのでしょうか。

動画は倍速で視聴され、就職活動では「失敗しない企業選び」が重視され、学びにおいても「それは何の役に立つのか」が先に問われます。

こうした傾向はしばしば、「余裕がない」「せっかちだ」「効率ばかりを追い求めている」と若者に対する評として取りざたされます。しかし、本当にそれは、若者個人の価値観の問題なのでしょうか。

むしろそこには、現代社会が生み出した構造的な闇が、はっきりと表れているように思われます。今回は、タイパ・コスパの尺度が発生してしまう社会的な背景について考えてみました。

動画視聴に表れる「急がされる感覚」

動画配信サービスやSNSでは、「短い」「要点だけ」「すぐ結論」が歓迎されます。長い動画は敬遠され、導入が遅いとすぐに離脱されます。倍速再生が当たり前になったのも、珍しいことではありません。

ここで重要なのは、若者が「じっくり味わう力を失った」のではなく、じっくり見ることが許されない環境に置かれているという点です。

次から次へと情報が流れ込み、立ち止まると「取り残される」感覚が生まれる。その中で、少しでも効率よく消費しようとするのは、極めて自然な反応です。

就職活動における「失敗回避」の思考

就職活動の場面では、「やりたいこと」よりも「安定しているか」「潰しがきくか」「後悔しないか」が強く意識されます。

企業選びは一種の投資判断のようになり、遠回りや試行錯誤は、「取り返しのつかない損失」として捉えられがちです。

背景には、終身雇用の崩壊やキャリヤのやり直しの難しさ、不透明な将来への不安があります。この状況で「失敗しない選択」を重視するのは、保守的だからではありません。不安定な社会に適応した、合理的な判断なのです。

学びが「投資」になってしまった現実

学びの場面でも、タイパ・コスパの尺度は顕著です。

就職や将来性に直結する勉強や資格の評価からはじまり、その成果の回収まで視野に入れてしまいます。こうした問いが、学ぶ前から始まってしまうのです。

その結果、すぐに成果の見えない学びや、意味が曖昧な問いに向き合う時間は、「無駄」として切り捨てられやすくなります。これは知的怠慢ではありません。学ぶことにすら、効率を求めざるを得ない環境が、そうさせているのです。

本当の問題は「浅くなったこと」ではない

タイパ・コスパが支配する社会で起きているのは、人としての器量が浅くなったことではありません。

本当の問題は、

経験が、十分に実感へと変わる前に、次へと追い立てられていること

にあります。

感じる前に評価し、考えが熟す前に結論を出し、立ち止まる前に次を探す。こうした生活が続けば、人生は確かに効率的になります。しかし同時に、手応えや余韻は、少しずつ失われていきます。

問われているのは、若者ではなく社会

タイパ・コスパを選び取っているように見える若者は、実際には、そうせざるを得ない速度の中で生きています。

問われるべきなのは、社会的な次の背景です。

  • なぜ、ここまで急がなければならなくなったのか
  • なぜ、無駄を許容できなくなったのか
  • なぜ、立ち止まることが不安になるのか

まとめ

効率そのものが悪いわけではありません。
問題は、効率以外の基準が見えにくくなっていることです。

少し遠回りをしてみること。
すぐに役に立たない時間を過ごすこと。
意味がはっきりしない経験を抱え込むこと。

それらは決して贅沢ではなく、人が人として生きるために必要な余白です。

しかし、いくら個人が努力して自身の生活やこころに余白を取り戻そうとしても、現代社会の構造そのものが、再びそれを引き戻してしまいます。長い目で見れば、本来なら時間をかけて育まれるはずの感受性や思考力といった、貴重な人的な力を、社会全体で手放しているとも言えるでしょう。

窓の外の景色を、ただぼんやりと眺める。
そのひとときにさえ意味や効率を求めてしまう――
そうした癖の行き着く先にあるのは、知らぬ間に積み重なっていく「苦」の新たなカタチなのかもしれません。

タイパ・コスパという言葉の流行は、若者の変化ではなく、現代社会が抱えている疲労の表れです。社会全体が醸し出している余裕のない空気感の象徴的な現象でもあるのでしょう。

そのことに目を向けるところから、次の問いが、生まれてくるのだと思います。

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