わずかな間が紡ぎ出す生活の余裕

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はじめに

前回、何気ない生活の中に間を作り出していると思われる映画を紹介しました。

最近、わたしは、日常における間というものに注目しています。

SNSの功罪

現代社会は、「間(ま)」が消えている——わたしを含めてそう感じる人は少なくないはずです。
本来、私たちのこころには、刺激と反応のあいだに“ゆとり”が入る余地があります。ところがSNS中心の生活習慣は、その余地を細かく削り取っていきます。

SNSのタイムラインは、原理的に“終わり”がありません。見終えた、読み終えた、という区切りが立ちにくい。
区切りが立たないと、こころは着地しません。着地しないまま次の刺激へ行く。すると、感情は鎮まる前に次の刺激で上書きされ、感情の綱渡りがはじまります。そこに「間」が育つ余地はありません。

わたしは、ネットやSNSを単純に悪者にするつもりはありません。
インターネット利用とウェルビーイング(人生における充実感や幸福感)の関連については、巨大データで“必ずしも害だけではない”ことを示す研究報告もあります。

つまり論点は、「ネットか現実か」ではありません。
刺激が来た瞬間に反応へ落ちていく“構造”が日常の隅々まで入り込み、その結果として「間」が成立しにくくなっている——ここが問題の核心なのです。

それでは、実際「間」が無くなっていくとどんなことが起こるでしょうか?

間が消えていく弊害

削られるのは、時間そのものというより、反応が降りていくまでの余白です。余白は誰でもが持っています。そして、この余白には緩衝材のような働きがあります。

つまり、現代では、刺激→感情→こころの反応→掴む→握りしめる、という流れの途中に入るはずの緩衝材が、薄くなっている、あるいは無くなっているというわけです。

わたしは、スマホを使うと酷く疲れてしまいます。眼精疲労も一因ですが、「すぐ見ろ」と無言の圧力をかけてくる通知が鬱陶しいのです。そのため、通知は全て「OFF」。LINEも妻子(月に一度来るか来ないか)以外に使うことはありません。また、「スマホ=携帯」と称しながら、机の上に忘れていくことしばしば。これは、半ば引退しているわたしの特権であるかもしれません。

このような応答への圧力は、現代的なしんどさの芯があるように思っています。

魔は間のないところへ

高齢者の人々への詐欺が後を絶ちません。最近の高齢者は、忙しい世の中に合わせるように、「間」が無くなってきています。少し考えればわかるような作り話でも「すぐに答えなくては….」と反応を急いでしまう。

鈍さは高齢者の特権です。「ちっと待っててね。考えさせてね……」何も急ぐ必要はありません。ゆっくり対応して良いのです。電話の向こうの悪意の輩は、自分が高齢者であることを知ってかけてきているのですから。

高齢者ばかりではありません。

「魔」は、「間のないところ」に入り込みます。
近年問題となっている闇バイトも、立ち止まる余地を失い、間を削られ続けたこころの中に、そうした「魔」が入り込んでしまった一例として、見過ごすことはできません。

まとめ

このブログでは、呼吸、瞑想について書いています。それもこれもすべて、生活、引いては人生の中に「間」を生かすためです。一方で、それらの習得には時間が掛かるし、何より長続きしない。

習得まで時間のかかることと、長く続ける難しさについては、わたしの静かな課題でした。「説明したからやってみて」というのは簡単ですが、それでは少し物足りないと思っていたのです。

そこで、最近着目しているのが、映画「Perfect Days」に見られるような動作のルーティーン化です。確かに、主人公の日常は面白みがありません。しかし、面白みのない日常に面白みを見つける面白さがあります。

そこで、思いついた練習が動作に紐づけることです。人が生活していく中には、必ず動作があります。ドアを開けたり。座ったり。手を洗ったり。動作は、私たちが生きている限り、必ず付いてまわります。

これをどうにかして作務にできないか?

そこで、動作を生かした「間」の身に付け方を本にいたしました。本書の根底には仏典の思想がしっかりと流れていますが、これまでの作品とは違って、本文中において仏典には一切触れていません。

実現次第では、スマホを握りしめる手を少しは緩めることが出来るかもしれません。ご一読して頂ければ幸いです。

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