わたしたちは、いつの頃からか「自分を完成させる」ことを人生の目標にしてきました。
もっと良い自分に。 もっと強い自分に。 ぶれない自分、本当の自分、評価される自分。
書店に並ぶ自己啓発書、SNSにあふれる成功談、宗教やスピリチュアルだけでなく、ビジネス書やキャリア論、SNSの自己演出も、形は違えど同じ方向を向いています。 ――自己を磨き、完成させよ。
しかし、その道を長く歩いてきた人ほど、疲れを感じてませんか?
- どこまで行っても「まだ足りない」
- 安心できる地点が見つからない
- 完成形が更新され続ける
これは、わたしの属していた寺院でも、信徒さんたちが実際体験していることです。
彼らは、あくまで信仰を前提に歩んでいるため、たとえ僧侶たちがその努力や歩みを評価したとしても、自身の至らなさを強く意識し、「これは自分の弱さによるものだ」と受け止めてしまいがちです。こうした自己評価のあり方は、とりわけ修行に真摯に取り組む人によく見られる傾向だと言えるでしょう。
一方で、この傾向は宗教の世界に限った話ではありません。一般企業やさまざまな団体においても、同じような姿は珍しくありません。自分の仕事に誠実であればあるほど、また責任感が強ければ強いほど、かえって自己評価は低くなってしまう——そのような構図は、私たちの日常の中にも広く見られるものです。
しかし、あれもこれも、努力が足りないからではありません。
「自己を完成させる」という前提そのものが、わたしたちを休ませない構造を持っている
からです。実は、この思想がわたしたちを縛り付けてきた中心にあります。
資本主義社会が求める「未完成な自己」
現代の資本主義社会は、私たちに絶えず問いかけます。
- あなたは、もっと成長できる
- あなたは、まだまだ更新できる
- あなたは、このままでは足りない
商品も、サービスも、情報も、常にアップデートされていきます。 そしていつの間にか、自己そのものが「更新対象」としての商品になってしまっているのです。
学び続けなければ取り残され、 磨き続けなければ価値を失う。
この構造の中では、 自己は決して完成してはならないのです。これは、成長を前提とした資本主義社会の構造的な歪のひとつでしょう。
世界は、仏典とは、まったく違う方向を向いていた
ところが、初期仏典を読んでいくと、奇妙な違和感に出会います。
お釈迦さまは、
- 理想の自己像をほとんど語らず
- 完成された人格像も示さず
- 「本当のわたし」を探すことを勧めない
むしろ一貫しているのは、
自己という前提そのものを、ただ解体していくこと
仏典に描かれる解脱とは、 「立派な自己になること」ではありません。
自己という枠組みが、力を失っていくこと。
わたしが、さんざんこのブログで提案している「ーわたしーを小さくしていくこと」。この一点です。
仏教でありながら、仏典に則していない
ーここに、資本主義社会に取り込まれながら成立してきた宗教としての仏教が抱える根本的な矛盾があります。
「完成しなくていい」という救い
もし、次のような問題意識を持って生きてきた人、あるいは生きている人は一度立ち止まって考えてみてください。
- 自分をどうにかし続けることに疲れている
- 答えのない自己分析に消耗している
- 成長という言葉に違和感を覚え始めている
そんな感覚があるなら、 仏典は、思いがけない休息を与えてくれるかもしれません。
それは、
もっと良い自分にならなくてもいい
という許可に基づく「生き方の方向性」です。
努力を否定するのでも、人生を投げ出すのでもありません。
「自己を完成させなければならない」という重荷を、いったん下ろしてみる
という提案です。
おわりに
これからも、仏典の具体的な示唆を、生活者の視点に立ってわかりやすくご案内していきます。
宗教の言葉をできるだけ使わず 、
思想としてではなく 、日常の感覚に引き寄せて、
少しずつ読み解いていこうと思います。
わたしの目標としていることは、自己啓発スクールでも、ましてや新たな宗教団体でもありません。
そのため、このブログや書籍を持って目指すのは、信じさせることでも、理解してもらうことでもありません。
「ああ、そういう見方もあるのか」 と、こころが少し緩むこと。
これだけ。
仏典は、 自己を完成させるための教科書ではなく、
自己に疲れた人のための、視点の方向転換の側面もあります。
これからもお付き合いして頂ければと思っています。








