目に見えない世界とお釈迦さまの思想──その整合性を再考する

目次

はじめに

このブログには、異なるようでいて、実はひとつの流れを成している二つのテーマがあります。

ひとつは、わたしが大乗仏教の僧侶として体験した、目に見えない世界での出来事。
もうひとつは、決定的な過去生が明確になってから、腑に落ちるように深まっていったお釈迦さまの思想についてです。

性質の違う二つの話題のように見えますが、わたしにとっては長い縁起の流れの中で自然にひとつへと結びついていったものでした。

目に見えない世界の体験は、どうしても読みやすく、
エンターテイメントとしては一番キャッチーです。
おそらく、そこが大半の読者にとって“ちょうどいい着地点”なのだと思います。
けれど、このブログを書き続けてきた本当の理由は、
そうした出来事の裏側にある「こころの仕組み」を明らかにしたかったからです。

もちろん、かつて法華経の世界観のもとで勧請される神々から“見せられてきた”経験もあって、その影響が色濃く残っている部分もあります。
それでも、扱っている内容がお釈迦さまの文脈から外れているとは感じていません。

ただし―それを公にブログという形で書き付けていく以上、ひとつ危惧する点があります。

スピリチュアルと宗教の「あいだ」に置かれるという誤解

目に見えない世界の話を書けば「スピリチュアル」と解釈され、
お釈迦さまの思想に触れれば「宗教」だと捉えられてしまう。

これは現代日本において、ごく自然に起こる反応です。
人々は、見知らぬものを理解しようとするとき、
カテゴリー化して安心したいというこころの傾向を持っています。
その枠にはめることで、未知のものを「とりあえずの位置」に落ち着かせたいのです。

そのため、このブログは、
スピリチュアルでも宗教でもないにもかかわらず、
読者によっては、どちらかの範疇に無理やり収められてしまう

そんな居心地の悪さを孕んでいるのだろうと思います。

このブログが属する場所について

わたしが書いていることは、
特定の宗教や教団、あるいはスピリチュアルの体系に属するものではありません。

では何なのかと言えば、
自身の体験と、過去生から連続している「こころの流れ」、
そしてお釈迦さまの思想に照らした理解を、可能なかぎり正直に綴っている記録

というほかありません。

目に見えない世界で起こる現象には、説明が追いつかない部分があります。
しかし、体験そのものを無視してしまえば、
「なぜ自分がこういうこころの働きを持つのか」という核心にはたどり着けません。

反対に、お釈迦さまの思想に触れずして、
体験の意味が腑に落ちていくこともありませんでした。

このふたつは、わたしにとっては矛盾ではなく、
“ひとつの連続した縁起”として理解されてきたのです。

おわりにーカテゴリー化を超えて

人は安心のために分類します。
しかし、分類によって見えなくなるものもあります。

わたしの体験や考察は、
宗教的信仰を勧めるものでも、
スピリチュアルな現象を肯定するものでもなく、
ただ、自分の「こころ」を誤魔化さずに観察してきた歩みの記録です。

もしもこのブログが、既存のカテゴリーに収まらず、
どこか“居心地の悪い存在”として映るのであれば、
それはある意味で必然なのだと思います。

見える世界と見えない世界、
過去と現在、
体験と思想。

それらを無理に切り離さず、ひとつの流れとして眺めようとするとき、
わたしたちは初めて、
「自分とは何か」
「こころとはどこから来てどこへ向かうのか」
という問いへのアプローチが自然にできるのかもしれません。

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