幽霊の季節?

はじめに

最近ではめっきり少なくなってきたとはいえ、毎年夏になると世間では怪談を中心にした目に見えない世界のお話しで賑わい始めます。わたしが子供であった昭和の頃はもっと盛んでした。夏祭りの見世物では、お化け屋敷が鉄板でしたね。

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なぜ夏に怪談話しが多いかと少し調べてみると、どうやらお盆や歌舞伎の出し物に由来しているらしいです。しかし、僧侶だった頃の実体験からいえば、季節には関係なく、凍えながら遭遇したこともありました。

ブログでは、このところ難しいお話しが続きましたので、季節柄、彷徨う意識存在、通称幽霊のお話しを書き留めておきたいと思います。

幽霊とは

幽霊の見方

幽霊について経験を交えながら、わたしなりに考察をしてみたいと思います。

科学的、医学的にどうあろうと、経験上人は死んでも意識は残ります。幽霊とはかつて生きていた人の残存した特別な意識体です。「特別な」としたのは、すべての人が死んだら幽霊になるわけではないからです。

最初に、残存している意識とは何なのでしょう。

残存する意識は、肉体とは離れていながらを持った俗に「魂(たましい)」と呼ぶことが多いと思います。一方で、お釈迦さまがおっしゃられていたように「魂」などというものは存在しないとわたしも確信しています。

この残存する意識体の正体については後述することにして、次に、残存している意識体はどのように感知できるのでしょう。

わたしが出家した寺院には、末寺と合わせれば、およそ30人ほどの僧侶が在籍していました。

人には、五感、第六感も合わせて様々な感知方法があります。僧侶によって、幽霊が生きているものと区別がつかないほど鮮明に目で見えていたり、耳で聞こえたり、皮膚で感じたり、その全部だったり、感知方法はそれぞれでした。

ちなみに、私の場合、神は目で見ることもありますが、幽霊については体全体で感覚的に感知していました。

僧侶のほぼ全員が、感覚を通して幽霊をはじめとした死者の残存意識と対面し互いに確認していました。宗教という枠を超えて、そうしなければ仕事にならなかったためです。

中陰の存在

人は死後、中陰という世界にしばらく留まります。中陰とはわかりやすく言ってみれば、この世とあの世との狭間にある異次元です。ここは幽霊が漂う場所とは違います。

中陰では、時間そのものか、あるいは時間の観念が失われているため、量子物理学で言うところの5次元以降の世界だと推察されます。また、中陰から先への世界は、神通力や霊感がどんなに強くとも知り得ない領域となります。

中陰の期間は、人によって様々で、人なりの生き様が現われています。善く生きた人は中陰に留まる時間も短いようです。ただし、地獄へ赴くことが決まっている者は特別で、経験上中陰に留まることもなく直行でした。

お釈迦さまの仏説にも登場する地獄とは、おぞましくも恐ろしい世界で、人の想像をはるかに超えています。簡単に口にすることさえはばかれる特殊な領域です。

そんな生き様の審判を、何某が、どのような基準で失効しているか皆目わかりません。ただ、「何某か」というよりは基準を含めて「システムの一種」だと思っています。

幽霊を感じた一例

せっかくの表題ですので、たくさんある中で、無難であまり怖くないような幽霊の事例を挙げておきましょう。

寺院には奥の院というところがあって、当時は2人の僧侶が交代で常駐していました。その日は、霊感がとても強く目に見えない世界を主に目で感知するタイプの兄弟子と一緒でした。

その日突然、事務を通して、福岡の南方にある一級河川近くに建つ天〇宗寺院の坊守1さんから相談がありました。

内容はあまり覚えてはいないのですが、何でも「夜中に台所を中心に歩き回るものがいる。大きな物音がしたり、不穏な影が伸びたりして家族が怖がって困っている」といった内容でした。昔当院に相談にいらした方からの紹介で、午後にでも来院したいとのことでした。

「先方もお寺なのだから、自分のところで何とかすればいいものを」と、相談者に対して兄弟子と冗談っぽく話していたのを覚えています。そろそろ秋の足音が聞こえてはきていましたが、まだ少し残暑のある頃で、奥の院の堂守所にはまだクーラーを付けていました。

相談者が来る一時間ほど前になると、急にあたりに寒気が漂ってきました。そのためクーラーを消したほどです。兄弟子と身をすくめながら「もう来てるね」と二人で苦笑いしていました。

以後の詳細は個人情報が絡みますので省きますが、相談のあった福岡の南方にある一級河川の下流域は、寺院ではいわくつきで、当時、中世の戦死者やその巻き添えにあった民衆の屍が累々と積み重なっていたところでした。

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ところで話は変わりますが、「シックスセンス」という映画をご存じでしょうか。この映画の中で、霊が近づいてくると寒気が漂うシーンがあります。

寒気が漂うといったケースは、ただの一般的な霊ではなく、事例で挙げているまさに幽霊によくあるパターンで、しかもとても強い因縁を持った幽霊の場合に起こる現象です。上記の映画は正確ではありませんでしたが、的は外していなかったというわけです。

その後、兄弟子が担当となり、幽霊自体の姿も彼は見たのでしょうが、改めて聞くことはありませんでした。このような事例は、何も特別なケースというわけではなく、日々に忙殺されて記憶のどこかに埋もれてしまっています。

幽霊予備軍

幽霊は、このブログでも何度か登場していますが、生前における何らかの執念によって、存在自体がとても不安定な状態にあります。執念にはいろいろあります。人に対する情念、怨念、無念等や金やモノに対する執著などです。

みなさんも日々過ごしていると「この人は囚われているなあ」と引いてしまいそうな人に遭遇することが、ままあるかと思います。幽霊予備軍とでも言えるかもしれません。

こんな人が、現世で何かに囚われ、離すことが出来ないばかりか、しがみ付いたまま亡くなってしまうと残留思念が豹変します。これが、いわゆる幽霊化の元だと思っています。

縁と幽霊

幽霊にも、お釈迦さまの言葉のひとつ「」が関わっています。

お釈迦さまは人の生前に重きを置いて、人の死後について言及することはありませんでした。わたしは、この「縁」が、死後もしばらくの間この世の事象とつながっていることを経験してきました。

以下の記事に書いている通り、前述した残存意識とは現世で繋がっていた縁が解(ほど)けて離れていく過程における人であった残像の一種であると考えています。

まとめ

昔から「念に持つ」といいます。何に関してでも、人への恨みつらみに関わらず、物や人に対する思いまで、手放すことが幸せになるための基本となります。しかし、中にはどうしてこれが出来ない性質を持った人が、時代に関わらず必ず存在しています。

悪縁と良縁があるとすれば、素直に生きていれば、良縁は時間と共に自然に解かれて行きます。が、執念が無理やり繋いでいる悪縁は解けることなく固まってしまいます。その結果、この世と中陰の狭間で行ったり来たりする現象が発生してしまいます。

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時に人の思いというのは揺らぎます。幽霊の中にも、長い時間漂っていれば、執念を離してみようとの思いが湧くこともあるでしょう。そのこころの揺らぎが姿となって現われたり消えたりします。

これが、見える人には見え、感じる人には感じる幽霊というものです。

幽霊になるような人はなかなかいないとは思いますが、ゼロになることはないでしょう。AIが発展し、人を介さない世界になっていくにしても、人が生きていくためにはどうしても他人と関わらなければいけません。

玉石混合の世の中、人を貶めたり、むやみに傷つけたり、ハラスメントに戦争はなくなることはありません。そこには、どうしても恨みつらみが起こります。こころの成長なき現実では、幽霊がいなくなる世界は人類の終焉まで訪れることはないでしょう。

せめて自分や自分の周りだけでも、何事にも囚われることなく平穏で過ごせるようこころがけましょう。

  1. 主に浄土真宗の用語で他宗なのですが、住職の配偶者を指してこう呼んでいました。 ↩︎

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