目次
はじめに
瞑想の歴史は長く、古来から様々な様式で行われてきました。先だって「行と瞑想」というタイトルで行に特化した瞑想の方法を解説してみました。
ここで紹介した方法は、煩悩滅徐を遥か未来に掲げたヴィパッサナー瞑想を基本としたものでした。
煩悩と意識は切っても切れない関係です。煩悩は、意識が、人やモノ、感情や思考に手を伸ばしはじめることから起こり始めます。その意識の元をたどると自意識、自己意識となります。
今回、この記事を書くきっかけとなったことは、最近わたしのこころに起こり始めた不穏な感情でした。それと並行して、はじめて試みた座禅についても書き残しておきたいと思います。
煩悩ふたたび
わたしの煩悩の経緯
以前の記事で、煩悩が無くなって訪印に結びついたことを書きました。

煩悩は無くなったものの、その詳細については分からないままでした。遠い過去生からのことを想えば、やっと無くすことができたものを、わざわざ追いかけようとは思わないものです。
一方、煩悩の衰退は本人しか認知出来ない上に、それについての方法論や経緯のような詳細な記録というのものは、原始仏典をはじめ残っていません。
わたしが煩悩を無くした方法は瞑想ですが、正直に言ってしまえば、煩悩を無くすために瞑想をしていたのではありませんでした。瞑想していたら、突然こころの中に塊が現われてきて、観察していたら無くなってしまったといったタナボタのような状況だったのです。
また、わたしは「煩悩は一度滅してしまえば再び再興することはない」と勝手にどこかで思っていました。
煩悩の再燃?
わたしは、厳格な出家者のような外界から遮断され隔絶された環境にいるわけではありません。一般的な人々と同じように、パソコンをはじめ、音楽や書物など様々なメディアにさらされている日々を営んでいます。加えて、家事をしているので、物の値段や世情の移り変わりを毎日のように目の当たりにしています。
このような外界にさらされている影響からか、ここ最近になって、得体の知れないものがこころの中でざわめき始めていることに気が付きはじめていました。
自分の中に「塊」のようにしてあった煩悩が無くなって2年足らず。ひょっとして、このざわめきは煩悩の再燃ではないかと思い始めていたのです。
もうひとつの瞑想法
「わたし」への回帰
わたしが煩悩滅徐に至った瞑想法は、結果的にヴィパッサナー瞑想を基本とした「自己観察」によるものだったことは既に紹介いたしました。
最近では、これまでとは違った瞑想法を試しています。そのきっかけというのは、以前「わたし」をテーマにした記事の中で、「わたしを出来るだけ小さくしていく」方針に基づいています。

上記の記事内で長きにわたって解説した「わたし」は、借りた肉体に宿った仮の世における仮の存在です。「わたし」を小さくしていく行動(修行)に限っては、日頃のこころ掛けに拠ります。
それとは別に、生きている間に「わたし」自体を極限まで小さくしていき、遂には無くしていくような体験を考えた時、座禅において可能ではないかとふと思いたったのです。
座禅への一歩
わたしは、瞑想についてはいろいろな種類を試してきましたが、座禅に触れる機会はこれまで全くありませんでした。

一般向けに開かれている禅系の宗派の座禅教室は、指導者の「座る」癖や思いが混じる可能性が高いと思っています。そこで自分独自で座禅について調べることにしたのです。その中から、興味を持ったものが「只管打坐」でした。
只管打坐とは、「ただ座る」ことですが、禅の世界らしく背景の哲学を含めて様々な解釈が見受けられます。只管打坐のメインテーマである「ただ座る」哲学に、わたしは興味を惹かれたのです。
座禅への取り組み
座禅教室などに通った経験のある方のほうがよくご存じかも知れません。
体のどこにも力が入っていない自然な姿勢が、自然な呼吸を維持できるため、「座り方」が最初のカギを握っています。座禅の経験の全くないわたしが、座禅において一番難しく感じたのはこの「座ること」でした。
「座ること」に引き続いて大切なのは、「座ること」に向けた「こころのあり方」です。
只管打坐において目的・目標を持つことに意味はありません。「わたし」を無くしていくことは、結局禅における「無」と同じことと思われますが、これは決して悟りの境地などではなく座禅における過程のひとつだと解釈しています。
座って「わたし」を無くすことも、ただそのような状態になるに過ぎないのです。

只管打坐は、「座ること」は「座ることに向かうこと」であって、目標や意味といったいわゆる習禅1が頭にあってはいけません。そこで、「わたし」を無くすことは二の次とし、そこに座ることだけを心掛けることにしました。
2つの瞑想の交錯
話しをもとに戻します。わたしに芽生えてきた得体のしれないものは、次第にこころを乱し始めていました。ざわざわした何かがこころに巣くい始め、何とも居心地が悪いのです。
当初、座禅とこの「ざわめき」は何もつながりはありませんでした。こころの「ざわめき」を何とかしようと座禅を始めたわけではなかったのです。ただ並行して座禅をしながら、こころの中で少しずつ大きくなっていく「ざわめき」を気にはなっていました。
ある日、いつものように座禅をはじめたところ、こころの中に明らかに「座ること」を邪魔をする一点がありました。座ろうと姿勢を呼吸と共に整えていっても、その一点がまるで水に落ちた雫のように広がって妨げようとするのです。「これは何だろう」とすぐさま座ることを止めました。

止めて姿勢を崩すと広がりは納まり元の一点へと戻りました。そして、その一点をしばらく観察してみました。一点というのは、こころの中にそのまま一点だけあって、外観、形、高さ、幅といった何らかの造形ではなくて、感情や特定の思いでもありませんでした。しかし、存在だけは認知しているのです。
その一点をこころの中でただ観ている内に、いつの間にかすーっと消えていってしまいました。その間一分足らず。何ともあっけなく、以来、こころの「ざわめき」はすっきりと消えて元に戻すことができました。
まとめ
わたしは、煩悩滅徐は再興しないと思っていましたが、「煩悩の萌芽」とも言える煩悩が、再び芽生えることを経験しました。その原因が、情報溢れる環境に身を置き続けている為かどうかはわかりません。
また、「阿羅漢」という境地「阿羅漢果」は、この萌芽さえも滅徐してしまう境地だとそのとき何となく思っていました。
座禅や瞑想というのはこころと向き合うことでもあり、とてもあやふやで手ごたえのない修行です。そこから、人生が変わるような、または好転していくようなことが瞑想によって実現できるとはちょっと信じがたいかもしれません。
今回の経験は、そんな瞑想、座禅の効果を再認識するに至りました。座禅についても、今後とも自身のこころのチェックのために続けていこうと、今回の経験を通して思った次第です。
- 様々な観念を修し、次第に学習を深める禅のこと。つらつら日暮らしWiki〈曹洞禅・仏教関連用語集〉より ↩︎