はじめに
誰しも「老い」は訪れます。人にとって、「老いとどのように向き合って生きるか」は人生最後に待ち受ける最大のテーマだと言えるでしょう。
わたしも例外なく「老い」の真っただ中にあります。心境はともかくとして、肉体の面から言えば、腰やひざ、頭痛に不安定な自律神経と毎日どこかしら具合が悪い日々です。以下の記事を見事になぞっています。

先だっての記事で、「老病死」を取り上げました。
この中で、生きている内に自分の中にある「死」の垣根を超えることは特異点であることを説明していますが、「老い」についてはあまり取り上げることがありませんでした。今回はこの「老い」に限って、社会における問題点と合わせて考えてみたいと思います。

社会性を持った「老い」
老いの認識
人は生まれる場所・時・境遇を選べないように、不慮の死を遂げない限り「老い」を避けて通ることはできません。「老い」は肉体的、精神的に厳しい現実を押し付けてきます。
お釈迦さまの言葉の中に「老い」に限定して探してみても「生老病死」とひとくくりされているだけで、特に「老い」について言及した記述は残っていません。それもそのはずで、「生」と「死」に比べれば「老い」などそれほど大きな問題ではないからです。
ところが、現代社会では、「老い」への意識を必要以上に高めようとしています。
社会と高齢者
わたしたちは、老人を始めとして、幼子、幼子を連れた人、身体障がい者、いわゆる社会的弱者と言われる人々に対して比較的不寛容な国に生きています。その為かどうかはわかりませんが、一般的に「老い」はネガティブな現象と捉えられています。
かつて中世日本では人生の先駆者として一目置かれていた老人の存在は、今では見る影もありません。「死」と同様、「老い」は忌み嫌われる現象として扱われています。アンチエイジング界隈が大盛況、「若く見えますね」が誉め言葉として日常に浸透しています。

これらの全体意識を変えることは、もはや不可能でしょう。この社会全体に及ぶ「老い」への否定的な意識が、老齢者には現状として、若年者にとっては将来の自分像として、「老い」への不安をさらに助長しているのです。
高齢者と空気
自分自身の「老い」を容認できない人が増えています。ここでの問題点は、自分のカラダに対する認識です。自分が次第に身体障害となっていくことを受け入れることが出来ないでいます。
世の中を見渡すと、生産性が優先される世界です。「役立たずは人にあらず」この考えが浸透してしまっています。人々が忙しく行き交う公衆の中、高齢者が少しでもよろめこうものなら迷惑そうな視線を投げかけられます。

メディアを始めとして社会では、生涯現役という「耳障りの良い矛盾した言葉」を広めようとしています。背後でアンチエイジング産業が暗躍しているとは考えすぎでしょうか。
生涯現役などそもそもあり得ません。いつか必ず衰え不具合が出てくるカラダなのです。この社会通念の下、人々は外見はもちろんのこと、身体内部に至るまで如何に壮年期を引き延ばすことができるか血眼になっています。この解決策としては、壮年期に突然死するしかありません。
ここにも、20世紀末期以降から現代社会で培われた「空気」が装置のように働いています。人々のこころの中で「無常観」が壊滅した今、若さを尊ぶうたかたの空気がこの日本社会を支配してしまっているのです。
答えは今にある
先だっての記事で、今に執著して、今を上塗りしながら生きていく現代人の姿を書きました。

「老い」に直面している人にとって重要なキーワードも実は「今」なのです。しかし、老年期における「今」と上記における「今」とでは決定的な違いがあります。
端的にその違いを言えば、着目する対象が外にあるのか内にあるのかです。
内にある「今」とは、「今の自分の老い」に向き合う姿勢です。「老い」への答えは、外に求めても「老いを出来るだけ見えなくする手法」が得られるだけで、「老い」に対する執著を煽るだけです。
「今の自分」に注目するのは、次に挙げたところからきています。
- 過去の自分と比べないように(去年の自分はもっと強かった。etc.)
- 良い未来を期待しないように(足が良くなればまた歩けるようになる。etc.)
- 悪い未来を想像しないように(このままだと立てなくなるかもしれない。etc.)
過去の自分と未来の自分との決別が、「今の自分」となるわけです。
まとめ
年齢から言えば、35-65歳がミドルエイジ、65歳からが老年期となっています。人によって違うのでしょうが、わたしの場合、経験的に言えば老年期に入る前から「老い」への出会いははじまります。
人に頼ることを恥とする社会思想が蔓延する中、赤ちゃんに人の手が掛かるように、老人は人に頼らなければ死期を迎えることはできません。このように人に頼ることは、人の在り方として恥ではなく当たり前なのです。

一方で、自分で出来ることは限られてきます。バランスの取れた食事と適度な運動をしながら、フレイル1を出来るだけ遅くしていきましょう。また、「実るほど頭が下がる稲穂かな」の格言のように謙虚で怒らないこと。若者に後を任せ、老人をひと扱いしないような失礼な人には近づかないことです。
「ああカラダが思うように動かないな」とか「うむ忘れっぽくなったな」等、現状の自分のあるがままを受け入れていきましょう。老年期とは「今の自分」をみつめる貴重な時間です。
瞑想もまた自分の中の「今」をみつめ、みつけるプラクティスです。
「老い」における自分は、「日常において瞑想している自分だ」と思ってみてください。
「老い」の答えはすべて自分の中にある
答えは自分の中にありますが、答えを求める必要はありません。
「老い」に対する否定的な社会通念はもちろんのこと、外にあるモノや考えに惑わされることなく、衰え行く自分のカラダと会話をしながら、その答え合わせをしていく真摯な姿勢こそが大事なのです。
- 健康な状態と要介護状態の中間に位置し、身体的機能や認知機能の低下が見られる状態のこと~日本老年医学会2014年 ↩︎