行と瞑想

はじめに

「行と瞑想」というタイトルから何となく推測されるかとは思いますが、今回は、わたしが見出した行に特化した瞑想を取り上げています。少々長くなってしまいましたがお付き合いください。

行とは

ここでの行とは、煩悩を滅除を最終的な目標とした訓練のことです。

みなさんは、行と聞いてどのようなイメージをお持ちでしょうか。滝に打たれたり、険しい山道を闊歩したり、自分の肉体に何らかの負荷をかけて、自分を追い込んで行くようなイメージをお持ちだと思っています。

本来の行とは、自分に向き合うことです。さらに言えば、戒律(ここでは五戒)1を以てして、向き合う姿勢を整えることです。これ以外にありません。

出家と行

出家とは剃髪し、その覚悟を自他ともに確認する儀式です。出家には、自他ともに覚悟が定まり、戒律を守ざるを得ない環境に入るという利点があります(一部例外の宗派があります)。

日本仏教における出家は、宗祖の教義に対する信仰の先にありますが、本来出家は行と戒律のためだけにあるものであり、信仰とは違います。

また、現代社会において、行をおこなうために家を出てることは現実的ではありません。その一方、信念を持って取り組む覚悟さえあれば、場所も時間も無関係と言えます。

今回紹介するわたしの行は、社会とは隔絶された空間ではなく、むしろ積極的に社会に入り込み、人とカップリングする中でこそ、活かされるものだと信じて書いています。

行への動機

実行する前に確認したいことは、怒りや嫉妬、自責の念など、こころをかき乱す感情を苦しみと捉えられているかどうかです。苦しいからこそ、解消していきたい動機が起こるというものです。動機付けがあれば、続けやすくなります。

この行は宗教教団における信仰に伴う鍛錬とは違います。自分を高めていこうとするプラクティスです。人生に何も困ったこともなく、怒りや嫉妬も自分の個性として受け入れ、人の迷惑にならないように人生を楽しめていれば、それはそれで良いのです。

行の意味

わたしは、こころの行に至ることが、人が持って生まれてきている最大の意味だと思っています。また、今世だけで煩悩滅徐に至るほど易しいものではないことも、前もって知っていてほしいことです。

しかし、こころの行をはじめることは、人としての大きな一歩であり、たとえ効果を感じられなくとも、決して無駄な努力ではありません。これだけは経験上断言しておきます。

次節から瞑想についての詳細です。わたしがオススメしたい瞑想の方法は、観察を主眼としたヴィパッサナー瞑想に近い方法です。その理由と経緯、方法等をこれから述べたいと思います。

瞑想について

瞑想の種別

大きく分けて瞑想には二種類あるとわたしは考えています。ひとつは、集中力を高めたり、ストレス軽減のために、こころの波を静めていく瞑想法。もうひとつは煩悩を滅徐に向けて思考を観察していく瞑想法です。

なお、禅宗等で実施されている座禅の詳細については、わたしは現在も過去も禅僧ではなかったためわかりません。禅の真髄を求めたい方は、禅宗の僧侶にお聞きいただければと思います。

思考の観察とは

観察とは、自分を客観的にみること。自分のこころをまるで他人からのような視点で観察できるようになれば、行をはじめるための準備の大半は出来ているといえます。

第三者の視点を持って、自分の思考、特に感情の流れを把握していくことが瞑想の焦点となります。こころを苦しめる様々な感情には、それが生起する火種と、導火線に相当する経路があるはずです。

どんなときに怒りを感じるのか、どんなときに自分を責めがちなのか、嫉妬の元になっているものは何か等、感情の起点を探ることが最初の段階になります。

かつて、わたしが最後の煩悩を滅徐した時、以下の記事の中で、次のように書いていました。

上記の記事からの抜粋

(略)・・・~
預流果とは三悪道(地獄・餓鬼・畜生界)に陥ることのない境涯です。その後生まれ変わること7~8回。今世での出家前に「怒り」を治め、さらに声聞行を進めていく内に、こころの中に見えてきたものがありました。

前節でこころの中の「塊」と表現したのは、自分のこころの中に見えてきたものが、塊のように変化していったからです。

こころの中のこの塊は一体何なんだろう

詳しくは申せませんが、今世において出家しても、依然わたしには人間にいささかの煩悩がありました。それが、だんだんこころの中の塊となって見えるようになってきていたのです。
~・・・(略)

この塊と変わるまで観察し続けていた以上の経験から、この瞑想法に目覚めました。そうして逆引きするように、たどり着いたのがヴィパッサナー瞑想でした。

ヴィパッサナー瞑想との違い

現存するヴィパッサナー瞑想は、初期仏教の文脈の中で体系づけられた呼吸への観察を中心とした瞑想法だと、わたしは認識しています。その意味で、観察を旨としているものの、感情の動きを主眼としたわたしの瞑想法とは少し違っています。

それでは、今回の瞑想の核心へ迫りたいと思います。まず、瞑想の要点を、次節のように例えてみました。

思考と心象風景

砂の中に、凹凸なくきれいに埋め込まれた石を想像してみてください。
砂は広大なこころであり、石は感情です。

観察しない内は、砂しか見えていなくて、別の何かがそこに潜んでいることすら分かりません。観察するという行為は、石という感情をこころの風景である砂の中から浮き彫りにしていくことを意味しています。

最初の内は、埋もれてしまっている石の輪郭を見定めていきます。砂に何が埋まっているのか、白日の下にさらすためです。大変根気のいる作業となります。

観察を繰り返すうちに、最終的に石は砂より分離し、表面に姿を現してきます。こうなれば、しめたものです。姿が観えるようになりさえすれば、いつでもその感情をこころから分離することができるからです。

最初の内、こころの中は荒涼としていて、取りつく島もありません。
最終的な心象風景イメージ

ここで石の輪郭を見出すことが、「思いの起点」を探ることに相当します。

思いの起点

自分のこころの動きを思い返しながら、自分はこんな思い方をするのかとか、こんな考え方をしていたんだとか、湧き上がった思いに対するこころの出どころを探していきます。

一方で、多くの人々は、気持ちが先行してしまって、観察どころではないのが現状だと思います。観察したい怒りや自責の念等が強すぎるため、自身のこころがその囚われの身となっているからです。

これも前節の「砂と石」の譬えから言えば、こころの中は吹き荒れる砂嵐の状況です。感情に支配されていなくても、はじめたばかりの時は、風の度合いは人それぞれですが、常に砂が舞っています。そのため、石を探すどころの話しではなくなってしまっているのです。

こんなとき、いつでもこころの余裕を確保できるような訓練が出来ていれば楽です。そこで、前回の呼吸法があります。

呼吸は、こころに吹き続けている風を穏やかにしていく訓練

怒りで周りも見えない、気持ちが沈んでしまっている、自分を責め続けてしまう、そんな自分のこころに余裕がない時は砂嵐の状態です。直ちに、その場で感情を観察するのは止めましょう。

ここで、前回の呼吸について誤解のないよう話しておきたいことがあります。

それは、呼吸は、水を飲んだり、数を数えたりするような、感情の高波から注意を逸らすための方法ではないということです。あくまで、呼吸は、こころを観察することに集中する準備のためにあります。呼吸法を何のためにするのか、その意味付けがとてもデリケートなので注意してください。

呼吸に慣れないうちは、整うまで結構な時間が掛かります。荒だった感情に惑わされないよう、自分を観察できるまで待つしかありません。

自分を観るとは

感情には出どころがあります。昨今注目されているキレやすいお年寄りは、「自分の思った通りならない」あるいは「自分のプライドを傷つけられた(勘違いを含めて)」ことがきっかけで怒りに変化するケースが多くあります。

自分の中で、受け止めた外界の情報を、こころの中で捻じ曲げてしまう癖があれば、まずはそこから観察してみることです。本当に、自分に向けられたことなのか、総じて自分はどんなことでこころを乱し始めているのか、じっくりと観察を始めます。感情へと渡る過程を観るのです。

感情が起こったその場で実行することが一番ですが、その場で出来るのは、かなりの上級者です。通常、その場で出来るようになるまでには相当の時間がかかります。

最初の内は、一日の終わりでも結構ですので、静かに今日の自分の思考の動きを振り返る時間をつくることです。そうして、呼吸を整えてじっくりと感情が起こった時の観察へと移行してみましょう。

観察に際しての注意点

自分の感情の生起に対して判断を下してはならない

分かりにくい表現ですが、同時に不思議に思うかもしれません。人に迷惑をかけたから、あるいは自分にとって邪魔な感情だからといって、観察しながら反省したり後悔してはいけません。

それは、感情に対して、反省や後悔をした途端、行ではなくなってしまうためです。反省や後悔は、前節の譬えから言えば、砂の中に、石を埋め戻す行動に相当します。反省や後悔という観念は、自分の思いに対して納得し安心感を得るためだからです。

自分の感情の起伏の経緯を、ただただ観るのです。観察する際には、何も思わずに機械的に、肯定も否定もせずに、後悔や反省を含めた雑念は特に排除しましょう。

まとめ

人と関わっていると、出家しようが、こころを修めていようが負の感情は湧き上がってきます。人として生きている以上、仕方のないことです。

わたしでも、人との関係や社会の在り方に憤りは感じるし、不条理な人と接すると不穏な感情が沸き起こってくることもあります。

わたしは、この行としての瞑想を、日常茶飯事長い間行ってきました。そこで、体得したことは、たとえ感情に変わってしまいそうに感じることがあっても、観察に転じた途端、それらの感情が目に見えて氷解し消えてしまうという事実です。何より、生きてることがとても楽になりますので、その点でもオススメしたいプラクティスです。

また、瞑想による感情のコントロールは、前回の「呼吸」と同じように健康にも直結しています。煩悩の滅徐へと通じていく瞑想ですので、人生の目標としてこれ以上のものはこの世に存在しないといっても過言ではありません。

最後に、ここに書いている手法は、真摯にこころに向き合った結果習得した、事実に基づいて正直に解説しているものです。たったおひとりの方でも、この価値観と手法とが伝わって、実践して頂ければと願っています。

  1. 不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒の5つの戒め ↩︎

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