「わたし」という幻想

はじめに

表題に書いた括弧付きの「わたし」とは、この世で自分を指している総称を表しています。

何気なく意識している「わたし」という存在。普段、哲学者や心理学者等、人の内面について分析しようという人たち以外、「わたし」について改めて考えることはありません。「わたし」はわたし、そんなこと当たり前という認識が普通でしょう。

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しかし、お釈迦さまは、この「わたし」についての深く言及されています。それは、この世のすべての出来事が、各々の「わたし」から発現し、繋がり形作られているためです。

それでは、「わたし」そのものより先に、一旦一般的なわたしから見えてくるこの世について再認識してみましょう。

この世についての再認識

この地球におけるこの世というのは、動物として意識を持って生存するためにある最果ての世界です。地球上では、人間は動物の一種です。意識を持っている生きている動物は、決して人間だけではありません。

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ここで、この生きている世界で、時間と空間を失った状況下のわたしを想像してみてください。それでも現在のわたしのままでいられるでしょうか?

時間が止まり、時代感や物体をはじめとした世界を認識する手がかりが周りから突然なくなってしまい、わたしだけがぽつりと在る世界は、なかなか想像しがたいものです。

そのことからも、この地球という最果ての地で、時間と空間のある世界が用意され、生まれ出でた時代と居場所によって、現在のわたしのほとんどが作られているといっても過言ではないでしょう。

今ある時間と空間は、わたしたちに与えられた世界です。与えられて用意されている世界での目的というのは、修行し善行を実践するために他ありません。

そんなあやふやな目的のために生まれたのではない」と多くの人は言うことでしょう。しかし、人はそのことに気が付くまで、果てしない時間を過ごします。紆余曲折、人以外も経験しながら、その都度出会うわたしを何度も繰り返して学んでいくのです。

人には、目や耳、鼻や触感など様々な方法で世界に触れる能力を備えています。それは、自らの内にたくさんの外界の情報を持つことが出来るということです。

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人が持つ様々な感覚能力は、わたしをさらに肥大化させる誘惑へと誘います。この世界では、この誘惑との戦いが待ち受けています。言い換えれば、この誘惑のほとんどが、わたしから修行や善行を遠ざけているとも言えます。一見矛盾に感じられますが、この誘惑に負けないように、人は自己研磨していかなければなりません。

それでは、人が修行する目的とは何なんでしょう。なぜ、誘惑を退けてまで、辛い修行などしなければならないのでしょうか。

修行する目的

この世にあるわたしは、肉体はもちろんのこと、このわたし自身さえも時間と空間、言い換えれば時代と居場所に何とか同調しながら、自ら作り上げてきたものです。意識を取り巻くいろいろな外からの情報を介しながら、このわたしは情報を取捨選択し自分を確立していきます。

自分を成り立たせている事象は、性的なものであったり、舌が求める刺激であったり、名誉やプライドなど、自分を必要以上に大きく感じさせる意識であったり、数限りなく存在します。この魅力的な誘惑に対して執著したり、自分に取り込んでいきながら、その時々の時代に合わせたわたしが出来上がっていきます。

どれだけわたしを飾り立てても構わないのですが、最後には、執著を拭いつつ、小さくしていかなければ、この動物体という器から離れることはできません。わたしに結びついている数限りない「見えない線のようなもの」が、自分を成り立たせて来た事象に結びついているためです。

後述しますが、これをといいます。縁はいわば見えない線のようなものです。

時間や周りの人々を超えて結びついた膨大な見えない線のようなものが、わたしたちの周りに溢れています。これを断ち切ることなく無難に閉じていくためには、それなりの時間がかかることは容易に想像できます。

縁は、時間と空間を超越し、性格や嗜好など自分自身の内面だけでなく、外面における人との関係など多岐に結びついています。

最終的に、それら色々な欲望、思い癖、プライド等で大きくしてしまったならば、余計な部分をわたしから削ぎ落していく必要があるわけです。これを一般的に修行と言っているわけです。

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修行とは、このように「わたし」の中に長い間取り込んで重ねてきた様々な「わたし」を削げ落していく作業に他なりません。そのために出家というスタイルが確立し、戒律を守ることで自分の中に重ねてきたものを見つめる体制が宗教という枠の中で出来上がっていきました。

修行とは、長い間重ねてきた「わたし」を削げ落し小さくし変容させていく作業

善行する目的

人と人とが深く関わり合えば、縁が生まれます。善縁は癒着しないので絡みもしませんが、人が生き続け、生き抜く内には、恨みを買ったり恨んだり、人や自分を傷つけたり、いじめを受けたり、いじめたり様々な出来事が起こります。

もし、人を貶めたり、傷つけたりすれば、この縁は複雑に絡み合って、次第にひも解いていくことが難しくなっていきます。

何をしてもホトクことが難しくなった縁は因果となり、別の世界へと渡っていきます。人が三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に赴く理由です。

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このような悲劇的な結末を迎えなくとも、誰しもひも解くべき因果をこの世では結んでいます。それをホトクには、善行を積み重ねていくしかありません。善行は功徳を生み、より良い生涯を送ることで好循環を生んでいきます。

一方で、功徳が少なければ、厳しい現実を目の当たりにし、乗り越えるハードルが高くなってしまいます。この概念は、カースト制度の元になっていて一般的に誤解されています。しかし、カースト制度はバラモンの地位安定に拡大解釈され利用された概念に過ぎません。

現代人の多くは、固執した考えや多様化した欲望、名誉、プライドから、修行どころか善行までも軽視してしまいがちです。出家者が、俗世間と隔絶して生活するのは、わたしを見つめるためと、もうひとつには、新しい因果を結ばないためなのです。

聖者の域

善行の内に人を繰り返すうち、やがて世間の中に縁起の流れを見出しはじめます。ここで、わたしからお釈迦さまの唱えられた「わたし」へと転換していきます。

これは聖者として歩み始めた証左です。これを大乗における仏種と言い換えても良いかもしれません。仏の種、すなわち聖者の種を宿すのです。

そうして、何世紀という長い期間、聖者としての目覚めは「わたし」とは別の何処かで受け継いでいきます。煩悩を次第に無くしながら、縁から結ばれていった因果を無くしていきます。

ここまで来ると、この世に偶然や運命はないことを自覚し始めます。

最終的に「わたし」を取り巻く因縁はなくなり、因果を結ばなくなった自己を確認した時、この自己である「わたし」さえも、この世における肉体と同じように仮の宿であったことを自覚するに至ります。

前節でも言及したように、修行で変化していく自分を確認していくことは、肉体ばかりか「わたし」自身も無常であると再認識することなのです。

まとめると、以下がお釈迦さまが言われたこの世で人として解脱していく過程となります。

意識関連事項
この世のものすべてが常ではないという気付き無常に包まれた人の世
常ならぬものに対する執著は苦しみをもたらす気付き苦の概念
「わたし」さえ無常であることへの気付き無我への悟り
聖者となってからの修行過程

上記3種の関係には相互関係があります。まず、すべての事象に無常を意識できないと執著に変化していき、必ず苦しみを生んでしまいます。もっと深く言えば、「わたし」に取り巻き介在しているものは蘊(おん)というものです。これが人それぞれあって人の個性を形成しています。 

そして、無常なるものを無常と受け止めきれずに、苦を招いてしまっている本体が、すなわちわたしです。このわたし自身に無常を見出したときこそ、解脱の最終段階となります。

おわりに

我思う、故に我あり』とかつてデカルトは言いました。

しかし、すなわちわたしは、修行を積み因果を解いていく内に変化していきます。修行者の数年前の筆者であるわたしは、もはや現在の「わたし」とは異なっているのです。

また、意識は生まれ変わっても続いていきますが、転生のそれぞれの意識の本体は決してこの「わたし」ではありません。 「わたし」という意識は、帰るべき場所にたどり着くまで、この世に実存するための枠(わく)のようなものであり実体はありません。言ってみれば幻です。

「わたし」は、その世での善行や修行をしていくための仮の存在

その意味から言えばデカルトの名句も以下のように言い直さ是るを得ません。

我思う、しかし我なし

「わたし」が、聖者として歩み始めた時からがブレーキングポイントです。この出発点に立てるか立てないかで、人としての未来が決まるのです。

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