はじめに
まず「過去生」という言葉の意味を簡単に整理しておきます。
仏教では、人は生まれ変わり(輪廻転生)を重ねる存在と捉えます。数ある転生のうち過去の一生を指して「過去生」と呼びます(必ずしも人間とは限りません)。
本ブログでは、転生は実在するという立場から書いています。人はさまざまな生命として生まれ変わる意識存在である――これを前提に読み進めてください。
なお本文の最後の**〈まとめ〉**に、私が自身の過去生を知見した経験から得た大切な点を要約しています。途中を飛ばしてそこだけ読んでいただいても構いません。
過去生について
一般的な受け止め
過去生は実在するのか、それとも脳内の産物なのか――。
「あると思う」人もいれば、「人生は一度きり」と信じ、その一度を謳歌しようとする人もいます。「どうせ一度きりの人生だから」という言い回しは、節目に背中を押す常套句と言えるでしょう。
統計では日本人の約4割が、程度の差はあれ転生を信じているとされます。世界各地には過去生・転生を示すとされる事例記録もありますが、所詮は極めて個人的な話題です。親しい間柄でも共有しにくく、会話に上りにくいのが実情でしょう。
過去生の記憶がなければ「人生は一度きり」と考えるのは自然です。他方で、もし万人が過去生を詳細に知ってしまえば、混乱が絶えないだろうことも容易に想像できます。過去生が見えない仕組みは、今生に集中するための精妙なシステムだと感じます。
私の場合は、出家前から堰を切ったように自分の過去生が告げられる経験が続きました(別記事参照)。とはいえ、過去生が分かったからといって、今後の人生が劇的に変わるわけではありません。過去は過去であり、たとえ知り得た内容が平凡なら、活かしようがないことも多いのです。

それでも、過去生を知ることがまったく無意味かと言えば、そうではありません。生は今生だけで完結しないという広い視野に立てば、生き方を見直す契機になり得ます。
わたしの場合:2023年の出来事
きっかけ
2023年3月のこと。私の過去生観を覆す出来事が起こりました。
資料整理と熟読を通じて、出家十年の節目にお釈迦さまの教えを自分なりに総括していた折、怪我をきっかけに、頭の中に靄がかかり、その靄がスクリーンのように映像を映し出したのです。
それは数千年前の場面でした。なぜそう分かったのか――映像の中でわたしは生身のお釈迦さまから、自分の性格について静かに諭されていたからです。
詳しい出来事については、如何に記しています。
記録と現在が重なる
その過去生に相当する人物は歴史に名の残る人でした。資料を辿るほど、今生の私の性質・気質と重なっていき、単なる過去の出来事として片づけられない感覚が強まっていきました。
結果として、わたしの出家は仏塔の下で修行するための必然であり、そこへ向けてこれまでの人生が備えられていた、と痛感するに至ります。

誤解と訂正
上記の記事において、出家に導いたと感じていた「ある人物」を、当初は過去生の自分だと思っていました。ところがその人物もまた数千年前に私と深い縁をもつ、やはり歴史上の人だと分かったのです。さらに、出家前から夢や現実で見せられていた「だらしない自分の姿」は、破門後に洞窟に引き籠もっていた当時のわたし自身の姿でした。
歴史と内面:脚色された私の過去
記録上のわたしは「立派に仏教に貢献し天寿をまっとうした」と描かれています。しかし、思い出された実際のわたしは、感情の起伏が大きく、衝動的。その性格が過去生から脈々と続いていたことに、当初は気づいていませんでした。
お釈迦さまの入滅が転機です。
私は「お釈迦さまは死なない」と信じ切っていました。実際、お釈迦さまは会話の端々に不死の可能性をほのめかしていらっしゃったのです。
荼毘の後、お釈迦さまの思想は頭から飛び、自分を見失いました。さらに周囲からの責め立てに短慮で反応し、戒律まで破ってしまう――。そして50歳で破門。
この過ちを完遂し直すため、今生では51歳で出家したのだと合点がいきました。
性格の癖は、ありふれていても侮れません。まさにわたし自身が、このブログで繰り返し警告してきた
の典型例だったのです。
出家を中断させないために
過去生を思い出して分かったのは、わたしの出家はわたし一人の問題ではないということ。
人は縁でつながっています。わたしの破門は、他の弟子たちや関係者にも縁の歪みをもたらしました。その歪みを正すことが、今生で解脱をめざすことと結びついている――。目に見えない世界で多くの存在が関わり支えてきたことを実感しています。
なお、出家の直後、過去生で破門の要因となった衝動性は、早々に**除かれた(消去された)**としか言いようのない内的変化が起きました(以下の体験記事参照)。
先祖由来と考えていた性格傾向が、過去生の因縁によるものだと腑に落ちました。
過去生から再確認した大切なこと
ここで私は、過去生の実在を証明しようとは思いません。また、頻繁に想起される記憶を病理として片づけてもらっても構いません。私にとっては厳然たる事実であり、読む方はそれぞれの立場で解釈してくだされば十分です。
重要なのは二点。
- 性格は転生先にも受け継がれる。
- その性格の質いかんでは、人生を踏み外しうる。
もし過去生で預流果(よるが)に至っていなければ、私の短慮は三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に直行し、そこから二度と戻れなかっただろう――。この自覚は重いものです。

まとめ
今回、昨年思い出した過去生について記しました。
転生は、特に人として生きる上で、生老病死に並ぶ仕組みの一部ではないかと感じています。
生・老・病・死・転生
語呂はさておき、人は人に固執している限り、真の幸福に辿り着けないのかもしれません。他方で、この仕組みは人知を超え、何かが分かればまた新しい不明が増える――その繰り返しでもあります。
過去生を思い出して以降、出家前の性格のせいで、目に見えない存在たちや多くの方に計り知れない迷惑と心配をかけたことを思い、慙愧に囚われることがあります。今生をもって、私はようやく生まれ変わりを終える段に来たと感じています。
人は生を繰り返しながら、こころを成長させる宿命にある。
今生は、私にとって次の世界へ進むラストチャンスでした。長い時をかけ、辛抱強く付き合ってくださった見えない支援者たちに、ただただ感謝するばかりです。
最後に――
ひとりひとりは高い価値を持ち、誰もが大いなる計画の中にある。
ただし、人の道を外れれば相応の帰結が容赦なく訪れる。どうか忘れないでください。








