はじめに
インドを旅した際、どうしても気になる光景に出会いました。
今回は、現地で感じた小さな違和感——聖地で出会った人々の姿について、記しておこうと思います。
場所
その出来事は、摩訶迦葉ゆかりの地として知られるグルパ山(鶏足山)を登ったときのことです。

ガヤから車でおよそ一時間。レンガ造りの家々が増えてきたとはいえ、土でできた家屋もまだ多く残る、インドでも「田舎」と呼ばれる地域にその山はあります。
山の周囲には今も小さなジャングルが広がり、四十年前には虎や狼も現れたといいます。舗装のない荒れた道路を、車体が軋むほどの揺れの中で進む途中、色鮮やかなサリーを纏った女性たちが、頭に薪を載せて軽やかに歩く姿が印象的でした。
彼女たちの姿には、都市化とは無縁の、生命のたくましさがありました。
参道はおよそ一六〇〇段の石段。娘とともに息を切らせながらようやく山頂へ。道中では、物乞いや散乱するゴミが目についたのは以前の記事でも触れた通りです。
山上での様子
山頂には、多くの観光客や西洋人の姿がありました。チベット僧の一団も、手弁当を持ち込み、一日を山上で過ごしていました。彼らは弥勒菩薩の出現を待ち続け、転生を繰り返すことさえ厭わない修行者たちです。
しかし、今回とくに違和感を覚えたのは、聖地で瞑想する西洋人たちの姿でした。

「迷走」する瞑想
瞑想とは、本来こころを内に沈め、静かに統制していく修行です。
その本質は内省の深化であり、場所は問題ではありません。
聖地の空気に心が澄むという感覚はあるかもしれませんが、「場所の力」に依存した時点で、瞑想の意味を取り違えています。
仏教的にいえば、聖地とは修行の場ではなく祈りの場です。
ところが中には、丸く磨かれた石を「パワーストーン」と称して回しながら音を立てる人も見かけました。同行者がたしなめていましたが、少し滑稽な光景でもありました。
外道としての瞑想
以前の記事で触れたように、外道とは外側に真理を求めていく姿勢のことです。
瞑想という形をとっていても、その内実が外への依存であれば、それは外道にほかなりません。
西洋の瞑想者たちには、その「外に求める癖」が根深く残っているように感じます。
禅の言葉に「立って半畳、寝て一畳」とあります。
人の修行に場所の広さは関係ない。要はこころの広さなのです。
パワースポットやパワーストーンといった“パワー何とか”に意味はありません。
それは人の慢心であり、欲望の名残にすぎません。
外道とは、外ばかりに真理を求めていく姿勢です。その場の西洋人たちからは、瞑想という形は示していますが、こころの奥底にへばり付いている外道指向から離れ出ることの難しさを感じ取ることができます。
まとめー 聖地とは何か
聖地で瞑想する西洋人の真意を詮索するつもりはありません。
ただ、一般的に彼らが瞑想に求めるものは、功利的な効果です。
創造性の源泉、ストレス解消、決断力の向上——いわばビジネスや生活の「ツール」としての瞑想です。
それ自体を否定するつもりはありません。
むしろ何も始めようとしない人より、はるかに前向きです。
けれども、だからこそ聖地では慎むべきだと思うのです。
本当に瞑想が深まれば、やがて気づくでしょう。
瞑想に場所は不要であり、
聖地とは「行う場」ではなく、「感謝し、祈る場」であることを。
彼らが、より良い師と出会い、
そして少しでも早く——“外”から“内”へと帰る気づきを得られることを、
密かに願っています。
付録
グルパ山というところは、近所にレストランや食品の店はないし、バスでは入れないような不便な場所にあることから、これからもツアーには組み込まれることはないでしょう。そこで、最後にグルパ山頂上のヒンズー教寺院の景色でもお届けしておこうと思います。
柵で見えにくいですが、最後の仏塔の下部に(上部の良く見えるところではない)ダライラマ14世が寄進した菩薩像が祀ってあります。










