はじめに
わたしは、最愛の母を16年前に亡くしました。
ブログというのは、基本的に私事を書くものだとは思いますが、今回の記事は、とりわけ私事とも言えるわたしの母についてです。今年17回忌ということもあり思い入れもありますが、できるだけ、さらっと書いてみたいと思います。
よければお付き合いいただけたらと思います。
母について
2度の戦争を潜り抜け、家の貧しさから行きたかった学校にも通うことも許されず、陸軍将校だった初婚の旦那は戦争で亡くし、子を持って後妻で入った父の親せき一同からは、長い間いびられていました。
戦争を潜り抜けた人々全般に言えることでしょうが、まあ、この人ほど苦労した人生を送った人も珍しいのではないかと思っています。
にもかかわらず、いつも笑顔で家族を見守り、様々な場面でわたしを含め家族を支えてくれました。そんなことから、わたしはこの人から笑顔を奪ってはならない、そんな気持ちで生きていたのです。
母の出自
母は九州の中央部の片田舎で生まれました。幼少の頃から歌がとても上手で、尋常高等小学校の合唱団にも入っていました。当時、ラジオで独唱した経験もありました。音楽の先生からもその才能を見出され、東京の音楽学校への進学を勧められていました。
ところが、ある日母の父親が学校までやっていて、
明日から働かせますけん(九州弁)
と家に連れ帰っていったそうです。義務教育といってもまだまだいい加減な時代のお話しです。
結局、大好きだった学校には卒業までも行かせてもらえず、同時に歌への夢もあっさりと終わりを迎えました。
母の最期
母に限らず人の人生というものは、短い記事で書ききれるものでもありませんが、母の人生谷ばかりだったようにも思ってしまいます。
90歳を迎える前に、あっけなく母は最後を迎えました。最後に口にしたものは、わたしが救急車に運ばれる前に差し出したひとさじの擦ったリンゴと、入院して帰り際、わたしが飲ませた一杯の水でした。
まだ、わたしは自営業を営んでいる頃でしたが、幸い寺院とのご縁が既にあって、臨終正念式から葬式からその後の年忌まで尼法師にしていただきました。わたしの師匠の一人でもある尼法師については、以下の記事を参考にどうぞ。

尼法師は臨終正念式の間、亡き母に対して死んだ引導を渡していました。それを素直に受け止めた目には見えない世界の母は、慌てて騒ぎ出し、
葬式代!葬式代!
と目には見えないどこかの空間を走り回っていたそうです。それを聞いた出家前のわたしは、泣きながら、
葬式代は心配しないでいいよ
と何もない天井に向かって叫んでいました。
お金に苦労して生きてきた母らしい死後の様子でした。
まとめ
母の一生は、戦争もあって社会は入り乱れていましたが、家事に専心した本当に地味で平凡な生涯でした。苦労も絶えなかったそのこころの内は、わたしには推し量ることも出来ませんが、きっと入り乱れていたに違いありません。
にもかかわらず、家族をはじめ、周りにはその気配を微塵も見せずに、どんな憂いや悲しみさえも笑顔に変えてしまう、わたしにとってはかけがえのない太陽のような存在でした。
わたしの精神的な支えだった母でしたので、もし母がわたしの母ではなかったら、わたしの人生は人としての道すら踏み外していたかもしれません。また、その可能性があるため、この母の元に生まれることを選んだのでしょう。
人にとって大切なことは何なのか、どこにでも言葉としては転がってはいます。
その大切さを、笑顔と振る舞いを以て、わたしに教えてくれた母でした。