はじめに
今回で「輪廻と転生」についてのお話は最終回となります。
前回までは、輪廻がどのような世界で繰り返されているのかを、いくつかの推察を交えながら述べてきました。
結論から言えば、輪廻とは、さまざまな境涯をただ繰り返している状態のことです。
そこに特別な意味はなく、単に「回り続けている」という現象にすぎません。
しかし、その中にもし意味を見出すとすれば——
それは、ただ繰り返しているのか。
それとも、こころが少しでも成長しているのか。
この一点に尽きます。
次にどの世界に生を受けるかは、今世での心のあり方=成績によって決まります。
人は自らの行いによって次の世界を選ぶのです。
転生しているかどうかを、当の本人が自覚することはありません。
けれども、ただ車輪のように回り続けている間、人のこころは無自覚のまま苦しみを深めていくのではないか——
わたしにはそのように思えるのです。
この世は、人や動物、そして想像を超えた存在が共存する「次元の狭間」です。
今世でのこころのあり方次第では、餓鬼界や畜生界といった世界から浮上できなくなり、輪廻の車輪が止まってしまうことすらあります。
けれども、人として生き続けていること自体が、こころの成長を示しているとも言えるでしょう。
前世の記憶
さて、転生とは今世から来世へ、再び生をつなぐことを意味します。
主に人間界から人間界への移行を指していると考えられます。
来世では、いっしょになろうね!
——そんな言葉は、昭和の悲恋物語の定番でしたね。
けれども、サムシンググレートの目から見れば、来世で再び結ばれるかどうかは、互いの因縁とこころの成熟度によって決まるものでしょう。
前世の意味とは?
わたしの出家した寺院の信徒さんの娘さんが、幼い頃こんなことを話していたそうです。
「この世に来るとき、虹の滑り台をすべって降りてきたの」
なんとも微笑ましい記憶です。
人によって差はありますが、一般に前世の記憶は七歳くらいまで残っているといわれます。
多くの人に記憶がないのは、単に親や周囲が前世に関心を持たず、その年齢のうちに尋ねなかったからかもしれません。
もし前世の記憶がひとつでもあれば、人は「自分という存在は今世だけではない」と気づきます。
その瞬間、目に見えない世界への意識が開かれ、「自分」という連続した意識の存在を感じるでしょう。
わたし自身の経験から言っても、転生は確かに存在すると信じています。
わたしの前世の記憶
わたしの修行していた寺院では、住職をはじめ、多くの僧侶が前世の記憶を持っていました。
わたしは社会生活を送っていた頃、霊感などまったくなく、前世の存在など考えたこともありませんでした。
ところが、出家を決意した直前、怒涛のように過去生の記憶が流れ込んできたのです。
ここでは詳細には触れませんが、印象的だったいくつかの記憶を挙げてみます。
・炭鉱か金か銀山の鉱夫
落盤事故で亡くなりました。その記憶を思い出した後、しばらくは崩れ落ちる岩の光景にうなされました。
・法華経の僧侶であったことが2~3度
そのうち一度は、高僧として立派な法衣をまとっていました。
前世の記憶は、少なからず今世に影響を及ぼしています。
たとえば高僧であった頃の記憶が残り、数年前まで「僧侶とは何か」を自らに問い続けていました。
華やかな衣をまとっていても、こころの修行とは別のものであった——その痛烈な実感が、いまの僧侶観を形づくっています。
前世の因縁や執着が積み重なり、今世の「思い癖」として現れる。
これは、誰もが少なからず抱えている宿題のようなものかもしれません。
おわりに
「輪廻」という言葉は、バラモンの階級制度の中で身分の固定化に利用された歴史があり、
そのため一般には否定的な印象を持つ人も多いでしょう。
けれども、わたしの経験上、転生は確かに存在します。
人はこの地球上で何度も人として生まれ変わり、さまざまな体験を通じて学びを重ねていきます。
その歩みの果てに、人はやがて「転生そのものを終える」段階に至るのです。
なぜなら、転生とは学びのための輪であり、苦しみを伴う道でもあるからです。
その輪を超えるための唯一の方法は、自分のこころを成長させることです。
こころを成長させることは、最も難しく、そして最も見えにくい課題です。
だからこそ、お釈迦さまは人としてこの世に現れ、「こころを磨く」という道を示されたのです。
その思想は、時代を越えていまも静かに伝わり続けています。









