はじめに
輪廻という仕組みは、実に難解です。
わたし自身も、深く知ろうという欲求があまり働かず、自然と得られる情報も限られています。
ただ、今の人間界を見ていると——
修羅界や餓鬼界に落ちていく人々が、確実に増えているように感じます。
わたしが出家した寺院の住職が、ある法話でこうおっしゃいました。
地獄の一丁目の受付は、行列ができてる
地獄の一丁目とは、すなわち餓鬼界のことです。
現代の欲望と執著に満ちた世相を、まさに言い当てた言葉でしょう。
思い返せば、古来より人々は「地獄絵図」を描き残してきました。
わたしは長らく、それらは煉獄(れんごく)の情景だと考えていましたが、
最近では——あれこそが餓鬼界の姿なのではないかと感じています。
今回は、その餓鬼界を中心に取り上げてみたいと思います。
餓鬼界は、輪廻の複雑な仕組みがわずかに垣間見える、数少ない題材のひとつです。
餓鬼界
みなさんは「施餓鬼供養(せがきくよう)」という仏教の儀式をご存じでしょうか。
わたしの出家した寺院では、年間でもっとも大きな供養行事です。
この儀式の起源は、お釈迦さまの弟子の一人、**目連尊者(モッガッラーナ)**の逸話にあります。
神通第一と称された目連が、ある日その天眼通によって餓鬼界をのぞくと、
天上界にいると思っていた母が、餓鬼界に堕ち、苦しんでいるのを見つけた——
というお話です。
施餓鬼供養とは、この逸話に基づき、餓鬼たちに食を施し、
同時に祖先や六親九族の供養を祈る回向(えこう)法要のことです。
つまり、見えない世界にいる無数の存在へ、慈悲をもって布施する儀式です。

各個人・家庭の六親九族に対してこころを込めて読み上げます。
この話は一見すると寓話のようですが、
わたしの経験上、餓鬼界の実在も、天眼の働きも確かにあると思っています。
おそらく、史実に近い伝承なのでしょう。
目には見えない施餓鬼供養での出来事
施餓鬼供養の効果は絶大で、
わたしの先祖たちも、毎年この儀式を心待ちにしているようです。
以下は、供養の当日、わたしの兄弟子が感得した目に見えない世界の出来事です。
——供養の朝、まだ寺院の門を開く前、
門の外にはすでに多くの餓鬼たちが列をなし、
「早く開けろ」と言わんばかりに門を震わせていたそうです。
(実際に、門がごとごとと音を立てるのを聞いた僧侶もいました。)彼らは、門にたどり着くまでに、
草花も土も、そこにあるあらゆるものを貪るように食べ尽くしてくる。
——それほどに、渇いているのです。かつて人であった頃の「欲深さ」をそのままに、
終わることのない飢えと渇きの世界をさまよい続けている。門が開くと同時に、餓鬼たちは一斉に供物へ飛びつき、
食べ物も香も光も、まるで命を求めるように吸い込みます。
僧侶たちはお経を唱え、供物を布施し、
その功徳を仏を通じて、参拝者の先祖へと回向します。
そして、餓鬼たちもまた、そのお経を聞き、
一時でも渇きを癒し、己の愚かさを悔いて修行を思い出すのです。
施餓鬼供養とは、目に見えない世界と現世が交わる壮大な儀式なのです。
おわりに
正直に言えば、わたし自身も輪廻の仕組みを完全に理解しているわけではありません。
それでも、ひとつだけ疑問があります。
——もし、餓鬼界や畜生界に堕ちてしまったら、
そこからどうやって人間界に戻ることができるのか。
三悪道に堕ちれば、そこで輪廻の車輪が止まってしまうようにも思えます。
けれども、もしかすると——
仏の慈悲によって、亡者たちに「人としての最後の機会」が与えられるのかもしれません。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の主人公カンダタのように、
餓鬼界の苦しみの中で、ほんのわずかでも「他者を思うこころ」が芽生えたとき、
その意識の変化こそが、再び人としての転生を許される瞬間なのかもしれません。
しかし、人として戻れたとしても、
その人生は容易ではないでしょう。
苦難の連続、貧困や孤独——それらは決して罰ではなく、
最後の学びの舞台なのです。
その逆境の中で、
「この人生こそ、仏から与えられた最後のチャンスなのだ」
と気づけるかどうか——
そこが、次の転生への試金石になるのではないかと感じています。
壮大な転生の仕組みからの啓示や導きは、
いつも人の人生のどこかで、静かに示されているものです。
もしかすると、あなたの過去にも、
その「サイン」はすでにあったのかもしれませんね。








