はじめに
輪廻という言葉の源は、**六道輪廻(りくどうりんね)**に由来します。
六道とは、
天道・人間道・修羅道を「三善趣(三善道)」、
畜生道・餓鬼道・地獄道を「三悪趣(三悪道)」と呼びます。
ただし、修羅道を悪趣に含めて**四悪趣(四悪道)とする場合もあれば、
六道から修羅道を除いて五道(五趣)**とする説もあります。
(参照:Wikipedia)
六道輪廻とは、これら六つの世界を、生まれ変わりながら行き来すること。
つまり、終わりのない「生まれ変わりの旅」を意味します。
本来の仏教では、この言葉はどちらかといえば苦しみの循環を示すものです。
古代バラモン思想から「修羅道を除いた五道輪廻」として語られてはいます。
しかし、地獄に落ちれば、もはや自力では戻ることはできないため、
どちらかと言えば「地獄を除いた五道輪廻」の方が現実?に則していると思います。
まず最初に知っておいてほしいのは、
輪廻とはネガティブな言葉であるということです。
動物になろうと、餓鬼になろうと、
成長なくして繰り返すことは、すなわち苦しみである。
この一点を心の片隅に置きながら、読み進めてみてください。
それでは、わたしの感得した範囲で、それぞれの世界を見ていきましょう。
それでは、それぞれの世界について、わたしの感得した範囲で説明してみましょう。
修羅界について
修羅界の王は阿修羅です。
もともと天界に属していましたが、争いを起こして追放され、
その後、修羅界を創造したといわれています。
奈良・興福寺の阿修羅像は、三面六臂の姿で有名ですね。
全国巡回展示では女性を中心に大人気でした。
三つの顔のうちに見える「少年の面影を残した悲哀」が、
多くの人の心を惹きつけたのでしょう。
無理もありません。
たとえ王であっても、天界から堕とされれば、その憂いは深いはずです。
修羅界とは、闘争や口論を繰り返す人々が落ちていく世界です。
政治家、文筆家、学者——言葉を武器とする人々の中にも、
この性を帯びる者は少なくないかもしれません。
人を言葉でねじ伏せ、支配することに快感を覚える人。
反論のために反論し、他者を貶めることが「勝利」だと錯覚する人。
そうした心の闘争は、やがて修羅の業火に変わります。
たとえ今世で何不自由ない生活を送っていようと、
人を貶めた言葉の刃は、いずれ己を切り裂く。
修羅界は、決して美しい阿修羅像のような世界ではありません。
怒りと執着に満ちた、争いの絶えない世界です。
すすんで行くような場所ではないのです。
人間界
わたしたちが生きているこの現実の世界です。
人間界もまた、決して「良い世界」とは言えません。
他人からの理不尽、家族との別れ、病、老い——
苦労の尽きない、難儀な世界です。
わたしもこの年になるまで、数え切れないほどの悲しみと別れを経験しました。
それでも、人間でしか味わえない喜びや尊さがあることも確かです。
「人として生まれるは、稀(まれ)なり。」
お釈迦さまはそうおっしゃいました。
輪廻の果てに人として生まれることは、奇跡に近いこと。
だからこそ、この機会を無駄にしてはなりません。
人間界は、修行を行える唯一の場所です。
餓鬼界のように飢えと渇きに苦しんでいる世界では、
修行どころではありません。
畜生界のように知恵が働かぬ世界でも同じです。
苦しみを抱えながらも、心のわだかまりを静かに流すように生きる。
それが、人として功徳を積む道なのです。
輪廻もう一つの意味
輪廻とは、前世からの境涯の繰り返しを指すだけでなく、
日常の中の心の変化も示しています。
人は良いことがあれば天に舞い上がり、
悪いことがあると地獄のように沈む——
その繰り返しの中で一日を生きています。
つまり、わたしたちは毎日、こころの輪廻をしているのです。
転生としての輪廻は変えられない。
しかし、日々の「こころの輪廻」は自分で整えられる。
このこころの輪廻を穏やかにしていけば、
三悪道に堕ちることなく、来世でもよい世界へと向かうことができます。
日々の心の動きを静めること——それが、
人として生きる中でまず目指すべき「脱輪廻」なのです。
人間界にいることがチャンス
サムシンググレートな存在——
宇宙の理(ことわり)を司る大いなる力は、
人や動物を含めた生命に、それぞれの世界を与えています。
その選定は厳正であり、
一度下に堕ちれば、その世界から抜け出すことは極めて困難です。
たとえば、餓鬼界に堕ちれば、
再び人間界へ戻れる保証はほとんどありません。

だからこそ、「人であること」自体が貴重なチャンスなのです。
知恵を使い、思考し、修行できるのは人だけです。
頭で理解するだけでは足りません。
言葉で語るだけでも足りません。
滅多に訪れぬ「人としての今」を大切に。
その間にこそ、こころを整える修行をしておくべきなのです。
わたしがこうして言葉を綴るのも、
そのチャンスを少しでも思い出してほしいからにほかなりません。
解脱(余談)
六道輪廻から抜け出すことを「解脱」といい、悟りの境地とされます。
ただし、「悟った」「解脱した」という言葉は、あまりに軽々しく使われすぎています。
真の解脱とは、華々しいものではなく、
精緻で地道な修行の果てに、ようやく訪れる静かな境地です。
その実感は、本人にしか分かり得ません。
おわりに
地獄界については、以前少し触れました。

今回は修羅界と人間界を中心にお話ししましたが、
次回は、もうひとつの重要な世界——餓鬼界について、
少し詳しくお話ししたいと思います。
なお、天界と畜生界については、
わたしには直接の縁がないため、ここでは割愛させていただきます。








