執著への道筋

はじめに

わたしたちは、人やもの、人との関係や自分の生きがい、色々なものに対して執着を持ちがちです。子や孫でも、かわいい愛しいと思いも深まれば、いつまでも傍に置いておきたくなります。モノ等嗜好品に対しても嗜好に留まらないことしばしばです。

一般的に、執著は良くないといいます。大半の方々が、そう思っていることでしょう。

しかし、嗜好から執著、その境界が難しく、いつの間にか執著まで踏み込んでいることに、当の本人は気付くことが出来ません。

執著の見極めは難しく、いつの間にか前後左右判断できない暗闇の洞窟に入り込んでしまっているのが現状です。これを無明(むみょう)といいます。

だからといって、最初から嗜好すら持たずにストイックに生きるのも何だか寂しいものです。誰ひとり仙人のように霞(かすみ)を食べながら、山の上で生きることはできません。

人やモノへの傾倒は、気持ちの切り替えや生きがいに昇華できれば人生豊かに暮らせます。今回は、このやっかいで愛おしくもある、人が持つ執著について考えてみました。

執著について

誰しも人生の終わりが近づいてくればくるほど、この世の名残りは尽きなくなってきます。自分という存在の愛おしさ、家族への愛情等、色んな思いが次々と湧き上がってきます。

特に成功したと言える人生を歩んできたり、楽しかった仕事や趣味などに喜びを謳歌してきた方にとって、この世には放したくても離しきれない思いがたくさんあることでしょう。もしそれらすべてが執著だと言ってしまうと元の子もありません。

この世の思い残しは誰しもあります。そこに何も問題はありません。人として当たり前の感情です。それが執著までいってしまうと事情が変わってくるだけです。

念の及ぶ世界

それでは、執著について、目に見えない世界からみてみましょう。

現世を離れて、次の世界へ向かうためにはこの執著が大きな足かせになります。

多くの人々が、執著を手放すことを簡単だと思いがちです。執著などいつでも放せると、自分を顧みることなくうやむやに今を継続していき、それが過去を作り出し未来を確定していきます。

でも、経験上、死んだ後の剥き身になった人の思いには、執著という念がしっかりとこびりついてしまっています。その念は、通称「霊」とされる、人の残像のような不安定な形として残ってしまうことさえあります。

一般的にあまり知られていませんが、目に見えない世界では、執著は因果を絡めています。複雑化した縁は、すんなりと解(ほぐ)れてはくれません。その絡んだ縁はやがてこころの傷へとなり次の世界へと引き継がれていきます。

執着というのは自分のこころに傷をつけること

人は年取っていくと、自然と少しずつ未練を取りつつ、あの世へと旅立つ準備が整っていきます。年を取ったからといって、誰しも名残りや心残りはあります。それと執著とは全く別物です。だから、わたしを含め目に見えない世界を知る人々は、「自身のために執著はよしましょう」と言っているのです

執著という傷を取るには、「劫」単位のとても長い時間を要します。一方で、執著は人が思ってもいないところに働きます。例えば、病気や事故で亡くなる方々です。

病身の苦悩

わたしも、50代まではそこそこ体も動いていましたが、60を超えるとあちこちの衰えが急速に進むのを感じます。

画像はイメージです

通常、突然の事故や衰えや生活習慣によって病気等を発症し、病状によっては痛み・傷みに苦しむことがあります。

ピンピンコロリと亡くなるのが理想とされる現代では、何とか老いや病気にあがなおうとするサプリや民間療法の数々を雑誌やTVで必ず目にします。

ピンピンコロリとは、死ぬ直前まで元気で過ごし、病気で苦しんだり、介護を受けたりすることがないまま天寿を全うすること

~wikipedia

介護が必要となって、人に負担感を強いる苦痛は計り知れないと思ってしまいがちですが、何らか自分で制御できない体を親族や他人に任せるのは人の本性なのです。

話しは変わりますが、わたしの幼い頃から事あるごとに守護して頂き、出家に至る寺院へと導いて頂いたのが観音様でした。

わたしの父母は信心深く、わたしの幼い頃から遠方の観音様へ事あるごとにお参りしていました。そのためかどうかは分かりませんが、両親とも倒れた時には既に死期にあり、わたしには介護の経験がありません。

父母共々さすがにピンピンとまではいかなく弱りはしていましたが、入院することなくコロリだったというわけです。それから、二人に執著していたモノはありませんでした。孫とも付かず離れず、父は菜園が趣味で、母は歌や踊りが好きな人でした。

苦痛への執著

話しを戻します。大多数の人々は病気で亡くなります。亡くなってしまえば生前の病気など関係ないと思われる方がほとんどだと思います。

しかし、わたしの僧侶だった頃の経験上、死んだ後も、死んだ意識もなく病や痛みにあえいでいる残像意識が数多くありました。

死んだら分かりそうなものだと思うかもしれません。実際は、死んでしばらくは人の意識はそのままであり、本人の意識の中ではひとりで物思いにふけっているつもりにいることがほとんどです。

画像はイメージです

この仕組みはわたしにはわかりません。経験上事実として存在しているだけで、理論的に説明も証明も困難です。ここで、確かなことは以下の通りになります。

死とは決して生前の苦悩を晴らすものではない

これは、死後を否定する大多数の人々に通じる話しではありませんが、目に見えない世界の常識です。また、特に自殺を考えている人々に声高に伝えたいところです。

人は不思議な生き物です。あまり長く痛みが続いてしまうと、その痛みや病身そのものに執著が起こってきます。自分の病痛から離れることができなくなってしまうのです。

人は肉体を失うと、痛みや病身の思いを抱えたまま時間が止まってしまう

同時に、自殺に至ったこころの苦しみもまた、死は癒してくれません。本当に人の苦しみは生老病死。この点で、人は悲しみに生きる動物である一面はぬぐい切れません。

まとめ

執著もこころの癖のひとつです。病身に囚われるのも、こころに「執著への道筋」が出来てしまっているためです。病身に苦しむ自分をかわいそうと思う前に、生前から自分のこころを見直してほしいのです。

この進言は慈悲から遠く聞こえるかもしれません。冷たい言葉に聞こえるやもしれません。それでも、生前・死後どちらの病身の苦しみは、生きる苦しみと同じように、自身のこころだけが治めることができることを悟って頂きたい。

常日頃から、自分の執著の度合いに注意を払いながら生きがいとできれば、死後の状況も変わってくるでしょう。死後を考えるまでもなく、この世でも執著心は度を越すと周りに迷惑を及びかねません。

楽土が死後にしか見出せなかった中世に比べて、見かたによっては現代にはたくさんの楽しみや生きがいを見出す材料が豊富です。執著にまで至らせないで、嗜好や娯楽に留めて上手にコントロールしながら楽しく人生を送りたいですね。

それには、古代ギリシャの哲学者も言っていましたが、

自分を知ること

何にしてもこれが基本だということです。

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