縁の力学

はじめに

ここ福岡では、雨は降り続いていますが、気温は落ち着いてきているようです。

それにしても、昨今の物価の高騰はすごいですね。わたしは、毎日家族の食事を作っていますが、一年前とは同じメニューでも、かかる費用の違いに驚愕しています。

社会情勢をはじめ天候不順など、日本では年を追うごとに閉塞感が増してきています。このような社会では、自分の思い通りにならないことばかりです。

Web上やタイムラインに表示される情報に一喜一憂して踊らされていると、混乱し分からないことが増えていきます。分からないことが増えていくと、次第に不安感がこころを支配していきます。

知識至上主義とでも言いますか、人生に答えを探し出そうとする人が増えました。それは、高等教育を受ける人が増えた上に、情報が溺れかえっているからだと思っています。

情報をまとめ、組み立て直しさえすれば答えが見つかるような気になるものです。一方で、多すぎる情報は、混乱を招き、盲目的に間違った方向へ自分を持って行きがちです。

このブログで何度も言っていることですが、どんな答えも探し回らなくて良いのです。すべての答えは既に自分自身の中にはありますが、見つけ出す必要もありません。自分のこころを統制していけば、自ずとこの世の仕組みが起ち上ってきます。

今回は、再び縁について取り上げてみました。この世の仕組みが現れやすい事例のためです。その上で、幸せの大敵である不安を無くしていく方法を探ります。

万能感

僧侶になるとまず最初に何を学ぶかと言えば、始末についてです。特に。自分が使った様々な道具や食べた後の物の行き先まで、自らの手で世話して見届けることを学びます。有名な禅寺で見られるような修行僧さんたちの生活風景が良い例ですね。

きっと、何でも見届けるという日々の習慣が、人への慈悲へと繋がっていくのでしょう。

現代では食べ物は理路整然とスーパーに陳列されて、外食でもすれば食の用意から後片づけまでしてくれて、ゴミは業者が回収してくれます。普通に生活しているだけでも、始末を見ることなく生きていけるのです。これを、わたしはお客様社会と呼んでいます。

画像はイメージです

始末が見えなくなってなってくると、人々はともすれば万能感に陥っていきます。自分一人で生きていける心持ちが増していくんです。人は一人では生きていけません。一人でも生きていけると誤解させているのが、周りに拡がっているお客様社会なのです。

自立するにも人の手が必要です。勝手に自立するわけではありません。わたしも、たくさんの方々の支えや縁があって、今生きています。一人で生きていくのも死んでいくのも、この世の仕組みからすれば、最初からありえないのです。

昨今孤独死が取り出さされていますが、孤独死とは一人で亡くなっている状況をざっくり切り取って、事象を言葉に置き換えているに過ぎません。人一人死ぬまでには色々あるものです。

万物が因縁によって繋がり、しかも流れて留まることはないという真理がこの世には存在します。たった一人でも、繋がっている縁の広がりは無限です。

次の節では、縁の繋がりについての実例を挙げてみましょう。

縁という力学

わたしが大乗の僧侶であった頃、ある夫婦連れ立って、夫の深酒と体調不良を心配して寺院へと相談に来た話しを聞いたことがありました。

夫は、酒乱といった風情でもなく、どちらかと言えば控えめなおとなしい方で、酒が入ると変わる人は大勢いますが、彼の妻に伺うと、静かに酒をただ飲み続けるだけ。もともと酒は好きな方だったが、最近になってその量が半端なく心配になって、当てもないため相談に来たとのことでした。

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大酒飲んだ結果の体調不良は医者に診せはしますが、大酒飲みそのものの原因をカウンセラーや精神科等に相談するのは本人や家族にとっては敷居が高かったようです。特に田舎では周りへの気遣いもあって、お寺も選択肢のひとつとなっていました。

実際夫に対峙してみた僧侶によると、目に見えない世界の中で、今まさに夫の脇から白い手が二本伸びてきて、夫の前で見えない盃に酒らしい飲み物を注いでいたそうです。

今でも酒が飲みたくはありませんか?

担当した僧侶が夫にそう尋ねてみると、静かにうなずいていたそうです。

ここで、僧侶は神から見せて頂いた白い手は何ものなのか考えます。

・夫のこころから直接出ているものなのか?
・土地や家に縁するものなのか?
・まったく別の由来があるのか?

悪縁は概して一番弱いところに偲び寄ってきます。例え目的が本人であっても、家族がいれば、本人が一番触れられては困る愛娘であったことも、わたしの経験上ありました。今回の場合、当の本人が持っている酒への欲望だったようです。

見えない白い手は、夫の欲望に付け込んできました。夫の酒好きを取っ掛かりとして健康を害したい一念で酒を注ぎ続けているのです。こころが強ければ遠ざけることも出来たでしょう。しかし、白い手の出どころは、夫の弱いこころを想定済みです。

その後、この件については、本人に続く家系への因縁を調べることになったそうです。

一般の人は、この話しをただの怪談話の一種と捉え、お話しを消費するだけのことでしょう。わたしの場合、この現象を、縁のつながりが具体的に目に見えて現れている事例だとし、縁を解消するべくその力学が作用していると捉えています。

まとめ

無我という言葉があります。この中には万物は因縁で繋がり流転するという意味を含んでいます。しかし、人々は流転する事象だけに目を囚われがちです。そのため、安心感や拠り所を求めて人やモノにしがみ付こうとします

あまり執着も過ぎると先の例のように、酒飲みに、酒を注ぐ白い手のような不穏な影が伸びてくる場合もあるでしょう。

悪い因縁は不安なこころ、弱いこころに静かに侵食してきます。この記事の要点は、悪縁が付け入るスキのない強いこころを養っておくことにあります。ただし、くれぐれもこころの強さと気の強さとは違いますので誤解のない様に。

現代は、華やかで便利な一方、不安に満ちた世相です。答えを外に求めることなく、静かに自分を見つめ直してみましょう。目に見える備えばかりではなく、目に見えない、とりわけこころの備えがいざという時大切だと思うのです。

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