針の山の夢──亡き兄に届いた功徳

はじめに

この記事を書き進めようとしたとき、ふと一つの考えが頭をよぎりました。
それは、以前の記事で触れた「煉獄」という世界は、もしかすると「餓鬼界」のことではないか、という思いです。

煉獄という言葉は西洋の宗教用語ですが、
魂が罰を受けながらも、まだ救いの可能性を秘めた中間の場である点において、
六道輪廻の中の「餓鬼界」と深く響き合うところがあります。

そのことを考えていたとき、
大乗仏教の僧侶として活動していた頃に、信徒さんから伺ったある出来事を思い出しました。

そのお話しを、ここでしてみたいと思います。

ご注意

文末でも表記していますが、このお話しは決して特定の宗派への信仰を促しているわけではありません。

水行着を兄に

関東の方にも、わたしの属していた寺にご縁のある信徒さんがいらっしゃいます。
仮にその方を Aさん としておきましょう。

Aさんには、少し年上のお兄さんがいらっしゃいました。
お兄さんは寺の信徒ではなく、信仰にも特に関心のないごく一般の方だったそうです。

対してAさんは、信仰にとても熱心な方です。
年に二回、本山で行われる「行(ぎょう)」にも、欠かさず参加されていました。

この「行」とは、信徒を対象にした二泊三日の修行会で、希望者による水行(すいぎょう)、写経、法華経の勉強、そして僧侶や住職から修行の指針をいただく時間などが設けられています。
日常の喧騒を離れ、自分を見つめ直す貴重な時間でもあります。

そんなAさんにとって、ある日突然、お兄さんの訃報が届きました。
葬儀の準備の中でAさんは、ふとあることを思いつきました。

それは、自分が修行で身につけていた水行着を、兄の亡骸に着せてあげようというものでした。

わたしの修行時代の水行着

夢枕に立つ兄

葬儀が終わったその夜のことです。
Aさんは夢の中で、お兄さんの姿を見ました。

夢枕に立ったお兄さんは、こう言ったそうです。

お前の水行着のおかげで針の山を歩いたとき、針の先が丸くなっていたよ。

Aさんはその言葉を聞いて、寝床の中で涙を流しながら喜んだといいます。
兄が苦しまずに済んだこと、そして自分のこれまでの修行が確かに兄の助けになったことを、深く感じた瞬間でした。

針の山と煉獄

「針の山」といえば、地獄絵図にしばしば描かれる光景です。
日本では、中世以来、地獄は「亡者たちが鬼により現世の悪行の報いを受ける場」として描かれてきました。

しかし、地獄とは、以前の記事でも触れたように、鬼から叱咤され、責め苦を被るような――
どこか悠長さを残した場所ではありません。
そこは、まさに「人でなし」が堕ちゆく、
救いも光も届かぬ深遠なる別次元の世界なのです。

Aさんのお兄さんが立っていた場所は、わたしには**地獄ではなく「煉獄(れんごく)」**のように思われました。
つまり、完全なる罰ではなく、意識体がこれまでー体を得てー過ごしてきた生き様を振り返る中間の世界──。

仏教的にいえば、それは「餓鬼界」にも通じる世界かもしれません。
煉獄とは、罪を償うだけの場ではなく、まだ上昇の可能性を残した意識体の仮の修行場でもあるのです。

功徳はどこまで届くのか

Aさんの修行による功徳が、お兄さんに届いたのでしょう。
それが夢として現れたのか、実際に兄の意識存在が語りかけてきたのか、誰にも断言はできません。

けれども、少なくともAさんは、夢の中で兄が苦しまずに歩けたことを通して、**「功徳が他者へ届く」**ということの真実を、深く確信されたに違いありません。

わたしもまた、かつてその話を聞いたとき、身の引き締まる思いがしていました。
人は誰しも、善悪を抱えたままこの世を去っていきます。
そしてその行き先が、時に身近な家族でさえ「針の山」に立たねばならぬほどの厳しいものであることを知ると、
この世とはまさに、崖っぷちの上に立つようなものだと痛感していました。

寺院を離れて以降、仏塔のもとで実践してきた仏説の歩みは、法華経の示す世界観とは異なるものでした。
とはいえ、このAさんのお話しがわたしの耳に届いたのは、偶然ではなく必然だったのだと思っています。

そして当時、Aさんを通して龍神さまに見せていただいたあの光景の中にも、
確かに深い学びがあったと、今でも感じています。

おわりに

この世もあの世も、同じ縁の中にあります。
生きている者の祈りと修行は、亡き者へも確かに届く──
Aさんの体験は、それを静かに教えてくれます。

このお話しには「信仰」という言葉がたびたび出てきます。
けれども、ここで語ろうとしているのは、信仰を持つことを勧めるためではありません。
むしろ、人が「信じる」という行為を通して、どのように自分自身や他者、あるいは死者と向き合っていくのか――
そのこころの在り方について考えてみたいのです。

針の先が丸くなるほどの慈悲を、わたしたちはどこまで他者に届けられるだろうか。

生きることは、一つの修行です。

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