仏教の本質

はじめに

世界に宗教は星の数ほど存在しますが、インドと日本ほどたくさん神を祀っている宗教のある国は他にないと思います。

わたしの出家した寺院も例外ではなく、信徒のこころの拠り所、あるいは祈祷や供養を執行するために神を祀っていました。

古来より日本は八百万の神の国です。大地を取り巻く自然に息吹を感じて信仰の対象としてきました。日本の歴史を尋ねると、神社仏閣を問わず、信仰心が人のこころの拠り所となって、より良く生きるための人生の手綱の役割をしていたことを知ることができます。

一方で、釈迦滅後、宗教化した仏教は、出家制度でさえ信仰の先に設けるようになりました。今回は仏教と信仰、仏教と神という切り口で仏教の本質にせまりたいと思います。

仏教と信仰

修行と信仰とは似ても似つかない性質を持っているとわたしは考えています。

信仰とは神仏へと信奉を意味しています。これまで多くの信仰者に出会いましたが、大半が神仏への信仰心を大切にしていていました。

わたしが出家していた大乗の宗派は、他力から自他行、利他行のように成長に沿って本願成就を信徒に対して謳っています。実際は、神仏をこころの拠り所として専心してしまうと依存してしまい、他力からなかなか抜け出せない現状がありました。

画像はイメージです

信仰する過程は、一種のセルフマインドコントロールを繰り返していくことだと思っています。信仰心が深くなればなるほど、良くも悪くもそこから抜け出すことはなかなか困難となっていきます。

仏教の本質はこころの修行です。こころの拠り所を別に作ってしまっては、お釈迦さまの意図されていた教えの流れから逸脱してしまいます。

それは、たとえこころの拠り所が仏であってもです。ほとんどの寺院では信仰の対象となった仏は象徴化、神格化されています。お釈迦さまの言葉の真意からは、既に遠ざかってしまっている現状があるのです。

仏教と神

このブログでは、神は存在するという前提でお話ししています。

神の存在の根拠は、すべてわたしの経験によるものです。眠っているときはもちろんのこと、太陽がさんさんと降り注いでいる日中に起きている時でも神が現われ、その姿を実際目にしてきたからです。

以前の記事で神について触れました。

神を認知する能力として、霊能力、神通力と称されるチカラがあります。その双方の関係は、霊能力が前提にあって、修行の上に神通力があると思っています。

霊能力は人によって強弱があり、神通力となると修行の深度が問われるため、万人が神を体験できるとは限りません。ここで言う所の神通力とは神を通して得られる人知を超えた力のことで、一般的に以下のようなデータがあります。

  • 天眼通(てんげんつう) 遠近や粗細の境が見分けられる力
  • 天耳通(てんにつう)三界の声が聞こえる力
  • 他心通(たしんつう)他人の心を知ることができる力
  • 宿命通(しゅくみょうつう)過去の一切がわかる力
  • 神足通(じんそくつう)思い通りのところに行ったり、心のままに境界を変えたりすることのできる力
  • 漏尽通(ろじんつう)煩悩が尽きて、今生を最後に二度と迷いの世界に生まれないことを知る力

これらの神通力はきっちりと項目別になっていますが、実際は漏尽通(ろじんつう)を除いて混在しています。わたしも記述に近いと思われる能力を龍神を通して何度も体験しました。

当たり前のことですが、人の性質によって神は変わってきます。

欲に囚われている者が、結果的に自らの欲のために神通力を使うこともあるだろうし、困窮した人に助力したい一心で神を勧請する人もいることでしょう。人の境涯が変われば、勧請する神の性質も邪神、善神と変化します。

神も人と同じように「格」があって、ピンキリなのです。

お釈迦さまと神

初期仏典には、お釈迦さまが人と同じように神と話されている場面や神通力を駆使する場面が書かれています。

これをお釈迦さまを神格化するために、何者かが後世に創造し付記されたものという説があります。初期仏典を聖典とする宗派の中には、目に見えない世界を記述した箇所には触れないところがあるくらいです。

わたしは、お釈迦さまが神と同等かそれ以上の神力を備えていたと思っています。従って、初期仏典に見られる神の記述に違和感は感じません。このわたしでさえ神通力を体験できたのですから、如来であるお釈迦さまの神力が強大だったのは当然の帰結だからです。

画像はイメージです

目連(モッガッラーナ)尊者をご存じでしょうか。お釈迦さまの10大弟子のおひとりで、神通第一とされた方です。

目連尊者の神通も相当なものですが、お釈迦さまと目連尊者との神通力には決定的な違いがあります。それは、目連尊者が何らかの神(梵天?)を仲介として力を発動していたのに対して、お釈迦さまは彼自身を源としてその力を使っていた点です。いわゆる、神通力か神力かの違いです。

といって、お釈迦さまを神格化したり、仏に祀り上げてしまっては本質を見誤ってしまいます。

お釈迦さまは、強大な神力がありながら、その力を表立って使うことには消極的でした。そのため、目連尊者が変わって、お釈迦さまを邪神や暴徒から守るために神通力を駆使していました。目連尊者の神通使いがあまり目に余るようだと、控えるように諭していらっしゃったのです。

仏教の原点

お釈迦さまが神力に対して消極的だった理由は、神力で人の望みを叶えたり、導いたりしてしまえば、人は往々にして自助努力を怠り、こころを鍛錬していくレールから外れてしまう恐れがあったためです。

顕著な例のひとつに、子を亡くした母に対して、命あるものの無常観を悟らせる逸話がダンマパダ114の注釈として残っています。わたしも子を持つ親としては、とても考えさせられるお話しです。

物事が興りまた消え失せる法則を見ないで百年生きるよりも、
物事が興りまた消え失せる法則を見て一日生きることの方がすぐれている。

ダンマパダ114

注釈(キサー・ゴータミーの逸話から)

キサー・ゴータミーは息子を突然亡くします。彼女は息子を抱えて、ようやく噂に聞いたお釈迦さまのもとに行き着きます。
するとお釈迦さまは「ひとつまみほどの白からしを得るがよろしい」と答え、「ただし一人も死人が出たことのない家からもらってくるように」と指示します。

キサー・ゴータミーは町中の家々を尋ね、例外なく全ての人々に死がおとずれることを悟ります。

仮に仏教が宗教だとしたならば、亡くなった息子と神通力でコンタクト等取って、母の悲しみだけでも和らげようとしたことでしょう。それから母を息子の供養のために入信へと誘うようにしたかもしれません。

これは、わたしが出家した大乗仏教においては余法という手法となります。一般的な見方からしても、この余法は人の気持ちに寄り添ったと思える判断です。息子を生き返らせることが出来ないのですから当然の流れでしょう。

現在のわたしの場合、息子を亡くした母の来世を含めた今後の人生をおもんばかるならば、無常観を悟らせることの方が最上の選択だと考えます。

一方で、お釈迦さまがいらっしゃったからこそ、母が悟りに至ったのだと思っています。お釈迦さまの発言は、そもそも人に伝わる力が違っていたと思われるためです。

お釈迦さまにとっては、あくまでこころの修行に焦点を置いていて、自らが自らの意志を持って己の智慧を高めさせることが肝要でした。

この逸話で重要なのは、もともとお釈迦さまが強力な神力の持ち主だという点です。亡くなった息子の命そのものにアクセスできることさえ出来たかもしれません。

この逸話が実話だろうと作り話であろうと問題ではありません。母自ら悟らせるこの逸話自体、仏教の本質が宗教とは一線を画していることを示しています。

正直言って、この無常観を知ってる人には数多く出会いましたが、実際感得している人に出会ったことがありません。

神と縁起

前節に登場した目連尊者に話しを戻します。彼はお釈迦さまより先にお亡くなりになります。最後は暴徒に襲われて殺されてしまうのです。

目連尊者本人も、お釈迦さまも、暴徒に襲われ亡くなることは神通力で前もって知っていました。それでも、彼自ら暴徒に襲われることを選んだのは目連尊者の前世からの因縁に因ります。

たとえ目連聖者が阿羅漢の境地を得ていても、縁起を終焉させなければ真の涅槃に至ることはできません。これはすなわち、縁起は神通力より先行するということを現わしています。

ちなみにわたしも親しかった兄弟子の死を5日前に神通力で知りました。翌日になって彼にそのことを伝えたら「泰清(出家していた当時のわたしの法名)上人が言うんだったら、そうなるかも知れんね」と微笑んでいました。結局、回向に行く途中、運転していた車の中で血を吐いてそのまま亡くなりました。

縁起とはこの世界のシステムです。すべての力、存在、時間を超越して、システムである縁起が優先しています。

この逸話も実話だろうと作り話であろうと問題ではありません。これも仏教の本質が、お釈迦さまが見出した目に見えない世界の仕組みを基に創り上げられていることがわかります。

まとめ

本編に挙げた逸話にみられるように、仏教の本質は、お釈迦さまの言葉を、各個人が信仰心に寄ることなく、バイアスを掛けずに如何にこころに落とし込めるかにあります。

わたしの出家した寺院では、神通力を高め、その力で人を導くことを修行の力点としていました。

今年になってお釈迦さまの言葉を感得していくにつけ、仏教の本質が見通せるようになると、神通力を高めることと修行とは無関係であると思うようになりました。そこで、今年3月の還俗に至ったのです。

日本では目に見えない世界や自然・風土から受ける神秘的な体験を契機に宗教が登場してきました。わたしが大乗仏教から出たからといって、自然・風土からかもし出される宗教的な体験を尊重しないわけではありません。

一方、この世界では、仏教の本質を見誤って宗教から抜け出せずにいる現状があります。目に見えない世界の理論だからと言って、宗教とは一線を画していることを認識して頂きたいと思っています。

お釈迦さまの言葉は、いつでも誰に対しても開かれています。その言葉を受持して、人の先にある聖者のあるべき姿を見通したい方に届けたいだけなのです。

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