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戒律について

戒律を重んじ、徹底した苦行と禁欲主義と言えばジャイナ教というインドの宗教が思い出されます。ジャイナの語源が、「煩悩に打ち勝つ」という意味から来ているほどです。

インド ラナクプール ジャイナ教寺院

ジャイナ教の戒律はとても厳しく極端な例と思われますが、出家者がある程度規則正しい環境の下に身を置くことは大切だと思っています。何よりこころの統制に集中できますし、修行している実感も湧くというものです。

しかし、人間は制限されたものに対して、それが自分の嗜好と合致していれば猶更、こころの中で次第に大きくなっていく場合もあります。

性が好きな人、食べる事が好きな人、ブランド物や嗜好品が好きな人、人は禁止されればされるほど、こころの中でそれらを断絶、治めていくにはかなりの努力が伴います。

ただ、戒律というものはシステムであり、宗派が何であれ、制限されていると思っている内は、まだ道のり半ばなのです。

制限を制限と思わない強いこころを養うこと

これは在家においても可能な覚悟です。自由な環境にあっても、制限された環境でも、小欲が自然体で過ごせれば何よりなのです。

戒律の意味

わたしは、目に見えない世界において、過去生の因縁からお釈迦さまの時代の戒律を引き継いでいます。戒律とは、こころの統制を行うためにお釈迦さまが定められた大切な規則です。

わたしは、過去生において、お釈迦さまが亡くなった後に、この戒律を破ったことで破門の憂き目にあっています。それで、今世においてその続きを行っています。

わたしは、過去生の修行を踏襲していましたので戒律は厳守でした。今世はラストチャンスであり、また破門されるわけにはいかないのです。

大乗という自由な環境にあっても、戒律を意識することなく守られてきたことは、神仏の守護によるものだと感謝しております。

修行の在り方

大乗仏教、南伝仏教、それぞれ良い面があり、正しい答えなどありません。正しい想念から起こした人の行動に、優劣など付くはずもありません。お釈迦さまも、きっとそうおっしゃったことでしょう。

わたしは、過去生においてどちらかと言えば南伝仏教に近い修行を行っていましたが、出家した大乗仏教寺院においてお釈迦さまの教えを思い出すことができました。

そこでわかったことは、宗派・宗旨の違いはそれほど問題ではないということです。要は、自分でこころを統制することができれば一番良いのです。

ただ、人は弱いもの。そのため、修行を宗教的なシステムの一部として組み込むことによって担保しているとも言えます。

一方、人間ただ努力すれば何か報われるものがあるかと言えば、そうでもありません。やみくもに、自分のこころを統制しようとしても無駄に終わってしまうかもしれないのです。

無駄な努力をしないで済めばこれに越したことはありません。そのために、お釈迦さまの教えに限ってはいますが、今回大乗と南伝という現存する修行の形態をご紹介しているというわけです。

まとめ

人の意志は自由です。自由社会にある人の自由意思に対して、拒むもの阻むものがあるとすれば、それもまた自分の意志に他なりません。

こころを統制していくことは、すなわち人や動物として生きる事から離れていくことです。

早い時期に、自分の生きる道を見定めて、邪法・邪教・邪道に惑わされずに、この地上から離れる術をしっかりと自分の意志で見出していかねばなりません。

自分のこころを統制していくことは、例外なく誰もが担った人としての使命

奇跡的に人である今世の内に、人から卒業していく歩みを始めないことには何も変わりようがないのです。

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