ノアの方舟と三界の火宅

はじめに

表題に並べたのは、キリスト教の『旧約聖書』と仏教の『法華経』に書かれているお話しです。

ノアの方舟を何となく知っている方はたくさんいらっしゃると思います。一方、三界の火宅は、あまり知られていないお話しではないでしょうか。

昭和の時代、『火宅の人』という小説があって映画化もされましたので今より知られていたかと思われます。

なぜ、これらの聖書、法華経に登場する2つのお話をいっしょに題材にしたかは後でお話しすることとして、まずそれぞれについて簡単に解説しておこうと思います。

ノアの箱舟について

ハリウッド映画最盛期の頃は、キリストなど偉人を題材とした大スペクタル映画もたくさんあったのですが、最近では映画はもちろんのこと全く見聞きされなくなりました。そのため、ノアの方舟と言っても、10~30代の中には知らない人々も、わたしが想っている以上に多いのかもしれません。

ノアの方舟とは旧約聖書の『創世記』(6章-9章)に登場するノアの物語の略称です。ギルガメッシュ叙事詩など様々な記述があります。今回は創世記から引用してみます。

神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。」

~旧約聖書「創世記」第6章12-13

乱れた世が、神の逆鱗にふれ、正しい人間ノアとその家族や動物たちを残して、争いあう人間たちを一掃する物語です。神だけに容赦ない怖い物語ですね。

神が洪水によって人々を罰する中で、ノアに正しい人々を救うための方舟の建造を指示します。予言通り大洪水が起こりましたが、ノアや動物たちは救われ神より祝福を受けます。未来における現世の人々のありさまを、神と人とのお話しとして仮託した内容となっています。

あんまり欲望に惚けていて信仰しないと滅ぼしちゃうよという洒落にもならないお話しですね。

神への信仰に従うことと、悪に対して善を選ぶことの重要性が読み取れます。また、無理して現実的な解釈をしてみれば、災害に対する備えも重要ということです。

三界の火宅とは

次に三界の火宅ですが、さんがいのかたくと読みます。これは、『妙法蓮華経 譬喩品第三』に登場いたします。三界とはこの世のことですから、正確には三界は火宅が正確な言い方ということになります。その三界には欲界・色界・無色界がありますが、その内で最も燃え盛っているのが欲界です。

欲界とは、欲望(カーマ)にとらわれた淫欲と食欲がある衆生が住む世界

~wikipedia

三界の説明はこれくらいにして、この法華経の譬喩品にはどんなことが書かれているのか触れておきます。譬喩品には、お釈迦さまと弟子である舎利弗の会話が書かれています。

舎利弗が、それまでお釈迦さまの教えに無理解であったことに懺悔し、舎利弗の気分の中に仏子が生まれます。そして、他の弟子に対しても同じような誤解を抱かぬよう、お釈迦さまにわかりやい説明を求めます。

譬喩品では、舎利弗に授記(未来に仏となる保証)を与えるとともに、たとえ話を元にした舎利弗との会話を通して、教えを万民に説いている重要な場面が描かれています。

さて、肝心の三界の火宅ですが、法華経を経典としている宗派の僧侶であれば日頃必ず唱える一節の中にも書かれています。

三界無安 猶如火宅 衆苦充満 甚可怖畏 常有生老病死有患 如是等火 熾然不息 如来已離 三界火宅 寂然閑居 安処林野 今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸難患 唯我一人 能為救護

~妙法蓮華経 譬喩品第三

三界は安きことなし なお火宅のごとし 衆苦充満して はなはだ怖畏すべし

三界の火宅とは、最初にも言いましたが、わたしたちが生きているこの世界も含まれています。お釈迦さまが先を見通す力でご覧になった数千年後の未来の様子、すなわち現代を表しているといった方がより適切でしょう。

お釈迦さまの存命の時代よりも、今になっても人々の欲望はますます燃え盛っているわけですw

この世には、便利さや欲望を追求し、絶えず燃え盛るように足るを知らない人々が求め続けて、こころの休まることのない安らぎがない世界が広がっています。

また、上記の経文には生老病死いう言葉も出てきます。生きる・老い・患う・死ぬというのは、人間の代表的な苦悩を表しています。健康で活動的な若い人々には生きる以外ピンと来ないかもしれません。また、医学、科学も進歩してきた現代ですが、過去も未来も基本的な苦悩は同じというわけですね。

このように三界の火宅とは、数千年前にお釈迦さまが示された現代の人や社会が生み出した心象風景を譬えとして描いたものです。

補足:三車火宅

経文では、言い方が変わりますが「三車火宅」で詳しく語られていますので、その説明を少し補足しておきます。

三車火宅とは、3人の子等に、煩悩や欲望などが支配する生死の世界、すなわち三界の火宅の現世から抜け出せば、三車(羊車・鹿車・牛車)をあげますよというお釈迦さまの譬え話しです。

結果的に、お釈迦さまは三車のいずれでもないそれよりも優れた大白牛車を与え、これに乗って仏となる一乗を目指すよう諭します。

ここでいうところの三車とは、それぞれ声聞・縁覚・菩薩という精神修行の境涯を表し、三車=三乗のどれでもない「大白牛車」の一乗を目指しなさいということです。

これらは、如何にも大乗仏教らしい譬えですね。ちなみに仏説そのものに、これらの譬えは登場しません。

2つのお話しについて

2つのお話しを説明してみました。正確には聖書のノアのお話しはたとえ話ではありません。なぜこの2つのお話しを並べてみたかと言いますと、面白い共通点が見て取れるからです。

神と仏という違いはありますが、与えられるものがどちらも乗り物であるところがまず一点ですね。いずれも乗り物に乗ることが救済や救いにつながると言い換えることができます。

また、どちらのお話しも人々の苦しみや人類の滅亡から救出しようという意志が感じられます。ノアの方舟自体には、精神修行の具体的な説明はありません。

もちろん解釈に拠りますが、現世の状況と、人々の目指すべき道は、宗教は違えども同じようなものではないかと思われます。

火中の人々には、ゆでカエル理論のように、火中であることをなかなか気づくことができません。

仮にこれを読んで下さる読者がいるとして、読後もきっとこころ変わりすることはないでしょう。現実という厚いベールが実相を隠してしまって、今自分がどうなっているのか気付くことすらできないからです。

まとめ

現象界を超えた視点から、この世の仕組みが少しわかるようになってくると、別の見方ができてきます。

欲望と不安が入り混じった現実の社会の仕組みというのは圧倒的です。わたしからすれば、反対に人々の方が思考停止を余儀なくされ、マインドコントロールされているように見えてしまいます

そんな現代の有様がこの二つのお話しの中に表されていと思うのです。

聖職者や僧侶の中には、一人でも欲望の炎から離れて、良い方向に向かわせようと努力してい方々もいらっしゃいます。しかし、炎は思っている以上に激しくて、間近の火種さえ消すことが出来ないのがこの世の有様なのです。

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